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私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


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第16話「三行だけの、続き」

コンビニの帰り道だった。


レジ袋が手に食い込んでいる。おにぎり2つとペットボトルのお茶。それだけ買って、外に出たら雨が降っていた。傘を持っていなかった。


走って帰るほどの雨じゃない。でも止まるほど弱くもない。真白は濡れながら歩いた。髪が額に張りつく。


アパートの階段を上がって、鍵を開けて、靴を脱いだ。床が冷たかった。


テーブルにレジ袋を置いて、パソコンの前に座った。


電源を入れた。自分でも意外だった。


テキストファイルを開くと、カーソルが点滅している。最後に書いた行の続き。白紙。ずっとこのままだった。


指を置いた。キーボードの表面がひんやりしていて、指先の冷たさと区別がつかなかった。


『アリエスは口を開いた。言葉はまだ出なかった。でも唇が動いた。』


三行。


書けた。三行だけだけど、数ヶ月ぶりにアリエスが動いた。


しばらく画面を見ていた。たったこれだけのことに、指が震えていた。アリエスが口を開く。「私は悪くない」の手前まで、やっと辿り着いた。その先はまだ書けない。でもアリエスの唇が動いたところまでは、書けた。


それだけで、息が荒くなっていた。書けなくなったとき、誰にも言わなかった。少ない友人にも。「ちょっと休んでる」とだけ言って、パソコンを閉じた。


なろうのページを開いた。


アクセス解析の数字が目に入る。更新を止めてから数ヶ月。普通なら読者は離れる。でも——3人。毎日のように来ているアクセスが1つと、最近増えた2つ。更新もしていないのに。


真白はその数字をしばらく見ていた。


更新の止まった物語を、まだ開いてくれている誰かがいる。


テキストファイルに戻った。カーソルの点滅が、少しだけ違って見えた。


もう三行、書いた。



深夜2時。コンビニの休憩室は蛍光灯が1本切れかけていて、ちかちかと明滅するたびに壁の時計の影が揺れた。


朔はスマホを開いた。


なろうのブックマーク。いつもの作品。更新は止まったままだ。最後の投稿から数ヶ月。それでも朔は毎日開く。最終話を読み返すわけでもなく、ただページを開いて、更新がないことを確認して、閉じる。


アリエスが好きだった。断罪の場で笑うところが。何もかも奪われて、それでも背筋が曲がらないところが。なんでかはうまく言えない。読んでいるあいだだけ、自分の呼吸が少し楽になる気がした。


休憩室の椅子がきしんだ。背もたれに体を預けると、ビニールの表面がぺたりと腕に張りつく。夏の湿気が抜けないまま、九月に入っていた。


ふと、思い出す。


夕方になると来る女の子がいた。自動ドアが開く音がして、まっすぐ雑誌コーナーに行く。何も買わない。立ち読みだけして帰る。夏なのに長袖で、手首が細かった。顔色が悪くて、立っているのがやっとみたいな日もあった。


廃棄のパンを渡したのは、最初はたまたまだった。棚から下げてバックヤードに持っていくとき、あの子が雑誌コーナーでふらついたのが見えた。「よかったら」と言って差し出した。少しだけ顔が上がった。口が動いたけど、声にはならなかった。


それから何回か、廃棄のタイミングであの子がいると、渡すようになった。メロンパンとか、サンドイッチとか。あの子はいつも小さく頭を下げて、レジ袋を両手で受け取った。名前は聞けなかった。朔にも、それ以上踏み込む言葉は出てこなかった。


ある日、あの子がスマホを落とした。雑誌コーナーの棚の下に滑り込んで、朔が拾った。画面にバナー通知が出ていた。小説家になろうの更新通知。作品名が見えた。


返したとき、あの子は「すみません」とだけ言った。声を聞いたのは初めてだった。小さくて、掠れていた。


その夜、なんとなく検索した。あの子が読んでいた作品。悪役令嬢が断罪される話。読み始めたら止まらなかった。


最近、あの子が来なくなった。


8月の終わりごろだったと思う。気づいたら来なくなっていた。廃棄のパンを袋に入れる癖だけが残った。渡す相手がいないのに。


スマホの画面に目を落とす。アリエスの最後のページ。作者のあとがきが一行だけ残っていた。


『アリエスのこと、忘れないでいてください』


休憩室のドアが開いた。


「小林くん、レジお願い」


スマホを閉じた。ポケットに入れる前に、もう一度だけ画面を見た。更新はなかった。


次話:「消えてもいい場所」

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