第15話「それでも食卓に座る」
封書が来た。
蝋印つきの、重い紙。侍女が震える手で渡してきたから、中身を見る前に何かわかった。
部屋で一人で開けた。
10日後に、断罪の場が設けられる。場所は王宮の大広間。告発の正式な審問。関係する貴族が列席し、アリエスはそこで弁明の機会を与えられる——と書いてあった。「機会を与える」。もう結論は決まっているのに、形だけ喋らせてやるという意味だ。
手は震えなかった。
読んだことがあるから。この場面を知っているから。
でも知っているのと、自分がここに立っているのは、ぜんぜん違った。
封書を机に置いた。手の甲に、蝋印の赤い跡がうっすらついている。
あの話の中で、アリエスはこの封書を受け取ったあと一人で部屋にいた。誰にも打ち明けなかった。孤独に慣れていたから。誰かに頼ることを知らなかったから。
私もそうしようと思った。アリエスならそうする。だから私もそうする。
——でも、本当にそれでいいのかな。
読んだ話のなかのアリエスは一人で抱えて、一人で断罪の場に立たされた。それが正しかったのかどうか、私にはわからない。でもあのとき読みながら、何度も思っていた。誰かに言えばよかったのに、って。
封書を引き出しにしまいかけて、手が止まった。
ライナスは西棟のことを教えてくれた。フィオナは「困ってたりしませんか」と聞いてくれた。アルヴァンは、王太子が守らないだろうと言った。
みんな、何かを見ている。
引き出しの前で少し考えた。物語を壊したくない。でも——あの日、夜の廊下で自分で決めた。黙って待つだけは嫌だ、って。
封書をしまった。でも今回は、明日の朝、ライナスの顔を見てから考えようと思った。一人で全部抱えるのは——読んだ話のなかのアリエスのやり方で、私のやり方じゃない。
手に蝋の匂いが残っていた。甘くて、でもどこか重い匂い。ヴァネッサの香水とは違う重さ。こっちは、紙の匂いだ。古くて、冷たい紙の。
窓から中庭が見えた。花壇に誰かが水をやっている。侍女だった。こんな夕方に。明日の朝にはしおれるかもしれない花に、それでも水をやっている。
その夜も眠れなかった。天蓋を見上げて、封書の文面を思い出していた。10日後。10日。
10日あったら何ができるだろう。何回朝が来て、何回ごはんを食べて、何回フィオナに「おはようございます」と言われるだろう。
怖い、と思った。
断罪が怖いんじゃない。その先が怖い。断罪のあと、アリエスがどうなるか——わからない。作者さんはそこまで書かなかったから。
でもわからないからこそ怖い。もしここにいられなくなったら。フィオナがいなくなる。ライナスの足音が消える。食堂の朝食が、なくなる。
そっちのほうが、ずっと怖かった。
翌朝。
起き上がるのに、いつもより時間がかかった。体が重い。アリエスの体は強いはずなのに、今朝は布団から出るのがしんどかった。
でも出た。侍女が来て着替えを手伝ってくれた。鏡の中のアリエスは、いつも通りの顔をしていた。目の下に隈があるくらいで、それ以外は何も変わらない。強い顔。冷たくて、揺るがなくて、何があっても崩れない顔。
私はこの顔に、どれだけ助けられているんだろう。
廊下を歩いて、食堂に向かった。
扉を開けたら、いつもの風景だった。
フィオナが先に来ていて、パンをちぎりながら何かの本を読んでいた。ライナスが定位置に座って、無言でスープを飲んでいる。窓際の席にはアルヴァンがいて、報告書のようなものに目を落としていた。手元の茶はたぶん冷めている。
「おはようございます、アリエス様!」
フィオナが本から顔を上げた。昨日と同じ笑顔。昨日と同じ声。
席に着いた。テーブルにはパンとスープと、ゆで卵。湯気が立っている。
フィオナが本のほうを向きながら言った。
「今日のスープ、にんじんが多いです。にんじん好きですか?」
「……嫌いではない」
「よかった。私もです」
ライナスが何も言わずに席を立って、厨房のほうへ行った。戻ってきたとき、手に小さな皿を持っていた。焼いた果物。りんごみたいな、この世界の何か。砂糖をまぶして焼いてある。
それを私の前に置いて、自分の席に戻った。目も合わせなかった。
「……」
前に白身魚を置かれたことがある。スープを足されたこともある。今度は焼いた果物。
でも今日は「余計なことを」と言えなかった。喉のあたりが詰まっていて、声にならなかった。
フィオナが小さく「わあ」と言った。「甘そう」
封書のことは、まだ誰にも言っていない。言うつもりもなかった。知ったらフィオナは泣くかもしれない。ライナスは——たぶん何も顔に出さないけど、何か変わるかもしれない。アルヴァンは、もしかしたらもう知っているかもしれない。あの人は王弟だから、正式な通達が回っていてもおかしくない。
でも何も言ってこなかった。昨夜の廊下でも、今朝の食堂でも。窓際の席で茶を飲んでいるだけ。
でもこの食卓は今日もある。明日もたぶんある。あと10回、朝が来る。
焼いた果物を一口食べた。甘かった。砂糖が舌の上でじゃりっとして、そのあとにりんごみたいな酸味が追いかけてきた。
おいしい。
スープを飲んだ。にんじんが確かに多くて、あったかくて、お腹の底に沈んでいく。
テーブルの上のパンとスープと皿が、窓からの朝日に白く照らされている。
私はここにいる。まだここにいる。
フィオナが「アリエス様、パンくずついてますよ」と言って私の肩をぱたぱた払った。ライナスが一瞬だけそっちを見て、また前を向いた。
普通の朝だった。何も変わらない、ここの朝だった。
次話:「三行だけの、続き」




