第14話「月明かりの沈黙」
次の日も、その次の日も、昨夜のことは誰も触れなかった。
ライナスはいつも通り半歩後ろにいて、いつも通り何も言わなかった。あの夜のことがなかったみたいに。助かった。聞かれたら何て答えたらいいかわからないから。
でも体がまだ少しおかしかった。
フィオナと話しているときは平気でいられる。食堂で朝食を食べているときも。でもふとした瞬間に、あの声が戻ってくる。「帰りたくないの」。お母さんの声で。笑いながら。
そのたびに胸の奥がぎゅっと縮んで、手がきゅっと握られる。アリエスの体が自動的に拳を隠してくれるから、誰にも見えていないとは思う。
フィオナが気づいている気がした。
今日、一緒に歩いているとき、急に黙って私の顔をじっと見た。「どうした」と聞いたら「いえ、なんでもないです」と笑ったけど、あの子はなんでもないときにあんな顔をしない。
でも聞いてこなかった。踏み込まなかった。フィオナなりの距離の取り方なんだと思う。
夕方、また眠れない予感がした。
案の定、夜になっても目が冴えていて、天蓋を見つめたまま時間が過ぎていった。寝返りを打つたびにシーツが擦れる音がする。あの部屋の布団は薄くて、寝返りを打っても音なんかしなかった。
窓の外から虫の声が聞こえる。この世界にも虫がいるんだ。当たり前のことなのに、なんだか不思議だった。
諦めて廊下に出た。
歩いていたら、窓際に人影があった。
アルヴァンだった。
窓枠に腰をかけて、外を見ている。月明かりが横顔を照らしていた。銀灰色の髪が白く光っている。
引き返そうとした。この人の前に立つと、中を見られている気がして落ち着かない。
「アリエス」
名前を呼ばれて、足が止まった。振り返るしかなかった。
アルヴァンはこちらを見ていた。表情がない。怒ってもいないし、笑ってもいない。ただ見ている。
「……何だ」
「お前も眠れないのか」
「……散歩だ」
「そうか」
沈黙が落ちた。廊下に月の光が差し込んでいて、石の床が青白く染まっている。
帰ろうとした。でもアルヴァンが口を開いた。
「兄上の婚約者として、大変だな」
何の話だ、と思った。王太子のことを「兄上」と呼ぶのを初めて聞いた。
「……別に」
「告発のことを言っている」
知っているんだ。当然か。王弟なんだから。
「大変ではない」
「嘘だな」
あっさり言われた。反論する隙もなく、事実として。
アルヴァンが窓の外に目を戻した。月が庭の木を照らしていて、葉の影が地面に細かい模様を作っている。
「俺は政治には興味がない」
急に関係ない話が始まった。アルヴァンは窓枠に腰をかけたまま、足をぶらぶらさせている。王弟がそんな格好をしていていいのかと思ったけど、この人はそういうことを気にしない人なんだろう。
「ヴァネッサが何を企んでいるかも、兄上がどう動くかも、正直どうでもいい」
少し間があった。足をぶらぶらさせるのが止まった。
「ただ——兄上はお前を守らないだろうな。あの人は国のことを考えるから、一人の令嬢のためにそれを曲げることはしない」
さらりと言われた。独り言みたいに。でも私の心臓はばくばくしていた。
王太子はアリエスを守らない。読んだ話のなかでもそうだった。でもなんでそうなるのか、政治の話が絡んでいてよくわからなかった部分が——今、この人の口からぽろりと落ちた。
「……なら、なぜ話しかけた」
アルヴァンがこっちを見た。
「お前が、前と違うからだ」
心臓が跳ねた。
「……何の話だ」
「前のお前はもっと——なんだ、固かった。今のお前は、揺れている」
わかるんだ。この人には。アリエスの中身が変わったことが。言葉にはできていないみたいだけど、何かが違うということだけは。
怖い。見透かされている。
でも、中庭で初めて目が合ったときの恐怖とは、少し違う。この人は——探っているんじゃない。見えたものを言っているだけだ。
「揺れていない」
「そうか」
信じていない声だった。でもそれ以上追ってこなかった。
沈黙が続いた。廊下の窓から月を見ていた。二人とも同じ方向を見ていて、何も言わなかった。
夜風が窓の隙間から入ってきて、髪が少し揺れた。冷たいけど、嫌な冷たさじゃない。あの部屋の夜とは違う。あっちは閉じた寒さで、こっちは開いた冷たさだ。うまく言えないけど。
この人と黙って同じ場所にいるのは不思議な感じだった。怖いのに、嫌じゃない。嫌じゃないのが怖い。
フィオナといるときは言葉があって、ライナスといるときは足音がある。でもアルヴァンといると、何もない。何もないのに、一人じゃない。それがどういうことなのか、わからない。
「月が出ている」
アルヴァンが言った。独り言みたいな声だった。
「……見ればわかる」
「ああ。見ればわかるな」
少しだけ、口元が動いた気がした。笑ったのかどうかはわからない。暗くてよく見えなかった。
「……もう戻る」
「ああ」
歩き出した。背中に視線を感じた。振り返らなかった。でも廊下の角を曲がるまで、ずっとそこにいる気配がした。
部屋に戻って、ベッドに入った。
月の光が天蓋の隙間から少しだけ入ってきていた。
「お前が、前と違うからだ」
あの言葉が頭に残っていた。気づかれている。アリエスじゃない私がいることに。
怖い。
でも——あの人は、それを誰かに言うような人には見えなかった。
なんでだろう。根拠はない。ただ、さっきの沈黙が、そんなに悪いものじゃなかった。
目を閉じた。今夜は少しだけ、眠れそうだった。
次話:「それでも食卓に座る」




