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私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


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第13話「帰りたくないの」

夜。眠れなくて、廊下に出た。


今日は一日中、調子がおかしかった。夕方、若い侍女が手元の帳面に目を落としたまま、こちらを見ないで頭だけ下げて通り過ぎた。悪気なんてない。忙しいだけ。なのに、胸の奥がざらりとした。目を合わせないまま済まされること。そこにいるのに、いないみたいに扱われること。何でもないはずの仕草が、何かを引っかけて通り過ぎた。


アリエスの体がこういうとき勝手に歩き出す。夜中にひとりで廊下を歩くのはアリエスの癖で、私もいつの間にかそうなっていた。どこまでが癖でどこからが私なのか、もう考えるのをやめている。


裸足の足の裏に石が冷たかった。スリッパを履き忘れた。あの部屋でもいつも裸足だった。フローリングの冷たさとは違う。こっちのほうが深い冷たさで、骨まで届く感じがする。


壁の紋章が燭台の光でぼんやり浮かんでいた。鷹と剣。公爵家の紋だと体が知っている。


廊下の角を曲がったとき、声が聞こえた。


侍女が二人、突き当たりの窓際で立ち話をしていた。ここからだと姿は見えないけど、声だけが壁を伝って届く。


「帰りたくないの?」


足が止まった。


「だって、ここの方がいいもの」


「家族が待ってるんでしょ。手紙、来てたじゃない」


「うん、でも……帰ったら、また——」


声が小さくなって、聞こえなくなった。


でもさっきの一言だけが、耳に残っていた。


帰りたくないの。


(帰りたくないの)


声が変わった。侍女の声じゃなくなっていた。もっと硬くて、もっと近い声。


(もう帰りたくないの)


お母さんだった。


いつだったか思い出せない。お父さんがいなくなった後だったのは確かで、たぶん私が小学校の高学年くらいで——壁越しに聞こえた。お母さんが電話で誰かと話していた。笑いながら。


「もう帰りたくないの」


楽しそうだった。あの家に帰りたくないと言っているのに、声が弾んでいた。


帰りたくなかったのは、私がいるあの部屋だった。


壁に手をついた。石が冷たい。指先から腕まで冷えていく感じがした。


息がおかしい。吸っているのに肺まで届かない。口を開けて、何か声が出そうになって、押し込んだ。


(今のは関係ない。ここは——)


頭ではわかっている。ここは小説の世界で、私はアリエスで、あの部屋とは何の関係もない。でも体が言うことを聞かなかった。アリエスの体なのに、今だけは私の体になっていた。震えている。壁に爪を立てている。石が固くて、爪の先がじんと痛む。


(そんなに嫌だったんだ)


(私と、あの部屋にいるのが)


考えちゃだめだ。考えたらもっとだめになる。


フィオナに言いたい、と思った。困ってる、って。昨日、図書室で「少し、困ってはいる」と言ったとき、あの子はうなずいてくれた。聞き返さないでくれた。でもこれは——困ってるとかじゃない。もっとぐちゃぐちゃな、名前のつかないもので。


でも止められない。お母さんの声が頭の中でぐるぐる回っている。


あの夜、壁越しに聞いてしまったあと、私はどうしたんだっけ。布団をかぶった。目を閉じた。何も聞かなかったことにした。次の日、お母さんが帰ってきたとき、普通にしていた。何も聞いていない顔で。お母さんもいつも通りだった。スマホを見ながら、私のほうは見なかった。


いつも通り。


あのときから、ずっといつも通りだった。何も変わらなかった。変わったのは、冷蔵庫を開ける回数が減ったことくらい。


「——アリエス様」


足音がした。重くて、静かな足音。


ライナスだった。


暗い廊下の向こうから歩いてきて、私の少し手前で止まった。何も聞かなかった。壁に手をついて俯いている私を見て、一言も。


大きな体が燭台の光を遮って、影が私を覆った。


「……なんでもない」


声が震えていた。アリエスの声じゃない。もっと小さくて、もっと細い、どこにも届かないような声。


ライナスは言った。


「はい」


それだけだった。


なんでもないですか、とも聞かなかった。大丈夫ですか、とも。嘘だと気づいているのか気づいていないのかもわからなかった。ただ「はい」と受け取って、立っている。


私は壁から手を離した。爪の跡が石についているはずだけど、暗くて見えない。


歩き出した。ライナスの足音が半歩後ろでついてくる。いつもの距離。いつもの速さ。


廊下が長かった。窓の外は真っ暗で、月も出ていなかった。自分の呼吸と、二人分の足音だけが石の壁に反響していた。


裸足の足が冷えていた。でも部屋に戻ってスリッパを取りに行く気力がなくて、そのまま歩いた。ライナスは何も言わなかった。裸足のことにも気づいているだろうに。


部屋の前まで来て、扉に手をかけた。何か言おうかと思った。ありがとうでも、すまないでも、なんでもいいから。でも何を言えばいいかわからなくて、そのまま中に入った。


ベッドに座って、天蓋を見上げた。白い天蓋。シミはない。あの部屋の天井には14個あった。


手がまだ少し震えていた。


枕に顔を埋めた。泣きたいのか泣きたくないのか、自分でもよくわからない。目の奥が熱いのに、涙は出ない。いつもそうだった。泣きたいときに泣けなくて、何でもないときに急に目がにじむ。


目を閉じたら、ライナスの「はい」が浮かんだ。あの短い一言。何も聞かないで、何も返さないで、受け取ってくれた声。


少しだけ、息ができるようになった。


次話:「月明かりの沈黙」

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