第12話「帰る場所がある人」
図書室にいた。
アリエスはよく本を読んでいたらしい。体が自然とここに来る。椅子に座ると手が本を取って、ページを開く。読んでいるというより、体がそうすることを覚えているから、そうしている。
活字は読めた。日本語じゃないのに、意味がわかる。アリエスの体が知っているんだと思う。でも集中できなくて、同じ行を何回も目で追っていた。
「アリエス様、見てくださいこれ!」
フィオナが図書室に飛び込んできた。腕に本を抱えたまま、もう片方の手で何かをひらひらさせている。
手紙だった。封が雑に切ってあって、中から紙がはみ出している。
「弟から来たんです。下の弟で、まだ小さくて、私がここに来るとき泣いたんですよ」
弟がいるんだ。知らなかった。
「何人きょうだいなんだ」
「私が一番上で、下に弟が2人です」
フィオナの声が柔らかくなった。思い出す顔だ。嫌じゃない記憶を、取り出すときの顔。
フィオナが手紙から紙を取り出した。絵が描いてある。
「ほら、これ。たぶん馬の絵なんだと思うんですけど、犬にしか見えない」
笑いながら言っている。文句みたいな口ぶりなのに、顔は全然文句じゃない。嬉しいんだ、絵が届くのが。下手でも犬にしか見えなくても。
「見ます?」
「……いや」
「えー、かわいいですよ。ちゃんと名前も書いてあるんです。『おねえちゃんへ』って。字が間違ってて『おにいちゃん』になってるんですけど」
思わず口元が動いた。笑いそうになって、慌てて戻した。アリエスは簡単に笑わない。
でもフィオナは見逃さなかった。「今、笑いました?」
「笑っていない」
「笑いましたよ。口がちょっと動きました」
見ないでほしい。ほんとに。
私には弟がいない。きょうだいもいない。お父さんはいつの間にかいなくなった。お母さんは——通知だけは来ていた。手紙なんか一度も来たことがない。当たり前だ。誰も私に何かを送ろうと思わない。
「帰る場所がある人は、強い」
口がそう言った。誰の言葉なのか、わからなかった。アリエスでも私でもないような、どこかで聞いたような言葉。
フィオナがこちらを見た。
「強い、ですか」
「……離れていても繋がっている。それは、強いことだ」
言い終わってから、胸がきゅっとなった。羨ましいと言いたかったのかもしれない。でもそんなの言ったらおかしい。アリエスには東の領地に父親がいるんだから。
フィオナは少し考えてから言った。
「でも、帰る場所がなくても強い人はいますよ」
「……」
「アリエス様は強いです。帰りたいとか帰りたくないとか関係なく」
違う。私は強くない。アリエスが強いだけだ。
「どうしてそう思う」
「だって、毎朝ちゃんと食堂に来るじゃないですか」
予想していなかった答えだった。
「告発のこと、みんな知ってるのに。廊下で変な目で見られてるのも知ってるのに。アリエス様は毎朝来て、席に座って、ご飯を食べてる。それってすごいことだと思うんです」
そんなの——
そんなの、お腹が空くからだ。ここにはごはんがあるから。ほかに理由なんかない。
言えなかった。本当の理由を言ったら、この子はどんな顔をするだろう。ごはんがなかった夜のこと。冷蔵庫を開けたら舌打ちが飛んできたこと。何日も食べていなかった体が、ここに来て初めてスープを飲んだときのこと。
全部嘘みたいだ。ここにいると、あっちのほうが嘘みたいに思える。
フィオナが本に視線を戻した。ページをめくる音が、静かな図書室に響く。
図書室の空気は乾いていて、古い紙のにおいがした。あの部屋にはこういうにおいはなかった。湿気と、洗っていないシーツのにおいだけ。
窓の外で鳥が鳴いた。あの部屋にいたとき、鳥の声なんて聞かなかった。窓が小さすぎて、外の音がほとんど入ってこなかった。
ここは静かだけど、音がある。フィオナがページをめくる音、遠くで誰かが歩く足音、窓の外の鳥。
「……その本、面白いのか」
「めちゃくちゃ面白いです。騎士が敵の城に忍び込むところなんですけど、変装が下手すぎて——」
フィオナが嬉しそうに語り始めた。私は聞いていた。内容はあんまり頭に入ってこなかったけど、声を聞いていると、胸のきゅっとしたのが少しだけ緩んだ。
しばらくして、フィオナが本を閉じた。
「アリエス様」
「何だ」
「最近、何か——困ってたりしませんか」
心臓がどくんとした。
「……何のことだ」
「わかんないですけど。なんとなく」
フィオナの丸い目が、まっすぐこっちを向いていた。
告発のこと。ヴァネッサのこと。黙っているしかないこと。全部は言えない。言ったらこの子を巻き込む。でも——
「……少し、困ってはいる。大したことじゃない」
口から出た言葉は、嘘と本当が半分ずつだった。大したことじゃないのは嘘で、困っているのは本当だった。
フィオナは何も聞き返さなかった。ただ一回うなずいて、また本を開いた。
短いやりとりだった。でも、一人で抱えていた重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
次話:「帰りたくないの」




