第11話「まだ前を向く」
ヴァネッサが、笑っている。
廊下の向こうで、誰かと話していた。騎士の一人だった。ヴァネッサが何か言って、騎士がうなずいて、二人とも笑顔を貼りつけたまま頭を下げ合っている。ちょうど曲がり角で、私からは見えていてもあっちからは見えない角度だった。
足の裏が冷たくなる。
あれは証人集めだ。何回も読んだから知っている。断罪の場までにヴァネッサはアリエスの「暴力を見た」と言ってくれる人を何人も揃える。礼儀正しく、丁寧に、一人ずつ。笑顔のまま。
見ていることしかできなかった。
本当は止めたい。でも止めたらおかしい。アリエスは告発の裏工作を知らないはずだから。読んでいた私だけが知っていて、でも動けない。動いたら——フィオナの笑顔が消える。ここにある毎日が壊れる。
ヴァネッサが去った後の廊下を歩いた。さっきまで二人が立っていたあたりの空気が、まだ甘い匂いがした。あの人がつけている香水だと思う。花のような、でもどこか重たい匂い。
「アリエス様」
ライナスの声がした。後ろから。向こうから話しかけてくるのは珍しい。
「ヴァネッサ侯爵令嬢と、今日で三度すれ違っています」
見ていたんだ、この人も。
「知ってる」
「一度、距離を——」
「避ければ終わりだ」
口が先に動いた。アリエスの声。低くて、硬くて、迷いがない。私の中はぐちゃぐちゃなのに、声だけは平気な顔をしている。
ライナスが何も言わなくなった。正しいかどうか、自分でもわからない。でもアリエスならそうする。逃げない。まっすぐ立つ。何をされても前を向く。何回読んでも、この人はそういう人だった。
だから私も——いや、この体が、そうさせてくれる。
でも。
あの夜の廊下で、自分で決めたことを思い出した。黙って待つだけは嫌だ、って。
「……ライナス」
足を止めた。振り返ったわけじゃない。前を向いたまま、声だけ落とした。
「ヴァネッサが誰と会っているか——お前は、知っているのか」
沈黙が落ちた。少しだけ。でも短かった。
「名前まではわかりません。ただ、西棟の控えの間をよく使っているのは確認しています」
この人は、見ている。護衛騎士として城の中を見ている。読んだ話のなかでも、ライナスはいつもアリエスのそばにいた。でもアリエスは頼らなかった。自分の護衛が何を見ているか、聞かなかった。
「……そうか」
それ以上は言えなかった。ライナスに何をしてほしいか、自分でもわかっていない。ただ、一人で知らないふりをしているよりは——この人が見ているものを、聞いておきたかった。
ライナスは何も聞き返さなかった。なぜ知りたいのかも。どうするつもりなのかも。
衣服の裾が重かった。この世界の服は何枚も布が重なっていて、肩から腰まで誰かに掴まれているみたいな感じがする。あの部屋で着ていたTシャツとは全然違う。あっちは軽かった。軽くて薄くて、夜は寒かった。
ここの服は重い。でも、寒くはない。
昼食のとき、食堂の空気がいつもと違った。
私が席に着いたら、隣のテーブルにいた令嬢たちが急に黙った。スープの匙を止めて、ちらっとこっちを見て、また自分たちの会話に戻る。声が小さくなっていた。
前は気にされていなかった。公爵家の令嬢として当然のように座っていて、誰も特別に意識しなかった。それが今は、私が入るだけで空気が変わる。
ライナスが何事もないように自分のスープを飲んでいた。フィオナは遅れて来て、「すみません、道に迷いました」と言った。嘘だ。この子は道を間違えない。何か別の理由で遅れたんだと思うけど、聞かなかった。
食事を終えて廊下に出たとき、すれ違った騎士が目を逸らした。朝に挨拶をくれた人だった。
その先で、年老いた使用人が窓拭きをしていた。脚立に乗っていて、手が届かなくて苦労している。
通り過ぎるはずだった。アリエスの足は止まらない。でも——目が合ってしまった。使用人がこちらを見て、びくっとして、脚立の上で体がぐらついた。
手が出ていた。脚立を押さえていた。いつ動いたのかわからない。
使用人が固まっている。告発されている令嬢が、自分の脚立を押さえている。
「……続けろ」
アリエスの声で言って、手を離して歩き出した。背中で使用人が何か言おうとしていたけど、聞こえないふりをした。
午後、お茶の時間にフィオナが来た。
「アリエス様、お菓子もらったんです。厨房の人がくれたの」
手のひらに載せて見せてきたのは、焼き菓子だった。丸くて小さくて、砂糖がまぶしてある。
「一個しかないんですけど、半分こしましょう」
「いい。お前が食べろ」
声がそう答えた。アリエスの返事。でもフィオナは聞かない。
「だめです。半分こです」
割ろうとしたけど、丸い形だから上手く割れなくて、大きいほうと小さいほうになった。フィオナが大きいほうを私の前に置く。
「……逆だろう」
「もらったのは私ですから、渡す側が選ぶ権利があるんです」
へんな理屈だった。でもフィオナがにこにこしていて、何も言えなくなった。
「はい、アリエス様のぶん」
手のひらに載せてくれた。温かかった。さっきまでフィオナが握っていたから。
焼き菓子を口に入れた。バターの味がした。
あの部屋で最後に食べたものが何だったか、思い出そうとして、思い出せなかった。コンビニのお兄さんがくれた菓子パンだったかもしれない。味は覚えていない。
でも今のこれは、覚えている。バターの味と、砂糖のじゃりっとした舌触り。
フィオナが自分の小さいほうを食べて、「おいしい」と笑った。
「アリエス様はどうですか」
「……普通だ」
「嘘。目がちょっと細くなりましたよ」
見ないでほしい。そういうの、見ないで。
ヴァネッサの笑顔を思い出した。あの甘い匂い。証人を集めている手。この子の笑っている隣で、じわじわと追い詰めてきている。
怖い。
でもアリエスの体は怖がらない。背筋はまっすぐだし、表情は崩れない。
私は今、その体に守られている。アリエスの強さに、乗っかっている。
それでいいのかな。ずるいのかな。自分では何もできないくせに、アリエスの体が強いから平気な顔ができている。
わからない。でも、前を向くしかない。アリエスがそうするから。
廊下の窓から、夕焼けが見えた。空がオレンジ色で、雲の端だけが白く光っている。
きれいだった。怖いのに、きれいだった。
次話:「帰る場所がある人」




