表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が書き終えた、大好きな悪役令嬢の話  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/57

第11話「まだ前を向く」

ヴァネッサが、笑っている。


廊下の向こうで、誰かと話していた。騎士の一人だった。ヴァネッサが何か言って、騎士がうなずいて、二人とも笑顔を貼りつけたまま頭を下げ合っている。ちょうど曲がり角で、私からは見えていてもあっちからは見えない角度だった。


足の裏が冷たくなる。


あれは証人集めだ。何回も読んだから知っている。断罪の場までにヴァネッサはアリエスの「暴力を見た」と言ってくれる人を何人も揃える。礼儀正しく、丁寧に、一人ずつ。笑顔のまま。


見ていることしかできなかった。


本当は止めたい。でも止めたらおかしい。アリエスは告発の裏工作を知らないはずだから。読んでいた私だけが知っていて、でも動けない。動いたら——フィオナの笑顔が消える。ここにある毎日が壊れる。


ヴァネッサが去った後の廊下を歩いた。さっきまで二人が立っていたあたりの空気が、まだ甘い匂いがした。あの人がつけている香水だと思う。花のような、でもどこか重たい匂い。


「アリエス様」


ライナスの声がした。後ろから。向こうから話しかけてくるのは珍しい。


「ヴァネッサ侯爵令嬢と、今日で三度すれ違っています」


見ていたんだ、この人も。


「知ってる」


「一度、距離を——」


「避ければ終わりだ」


口が先に動いた。アリエスの声。低くて、硬くて、迷いがない。私の中はぐちゃぐちゃなのに、声だけは平気な顔をしている。


ライナスが何も言わなくなった。正しいかどうか、自分でもわからない。でもアリエスならそうする。逃げない。まっすぐ立つ。何をされても前を向く。何回読んでも、この人はそういう人だった。


だから私も——いや、この体が、そうさせてくれる。


でも。


あの夜の廊下で、自分で決めたことを思い出した。黙って待つだけは嫌だ、って。


「……ライナス」


足を止めた。振り返ったわけじゃない。前を向いたまま、声だけ落とした。


「ヴァネッサが誰と会っているか——お前は、知っているのか」


沈黙が落ちた。少しだけ。でも短かった。


「名前まではわかりません。ただ、西棟の控えの間をよく使っているのは確認しています」


この人は、見ている。護衛騎士として城の中を見ている。読んだ話のなかでも、ライナスはいつもアリエスのそばにいた。でもアリエスは頼らなかった。自分の護衛が何を見ているか、聞かなかった。


「……そうか」


それ以上は言えなかった。ライナスに何をしてほしいか、自分でもわかっていない。ただ、一人で知らないふりをしているよりは——この人が見ているものを、聞いておきたかった。


ライナスは何も聞き返さなかった。なぜ知りたいのかも。どうするつもりなのかも。


衣服の裾が重かった。この世界の服は何枚も布が重なっていて、肩から腰まで誰かに掴まれているみたいな感じがする。あの部屋で着ていたTシャツとは全然違う。あっちは軽かった。軽くて薄くて、夜は寒かった。


ここの服は重い。でも、寒くはない。


昼食のとき、食堂の空気がいつもと違った。


私が席に着いたら、隣のテーブルにいた令嬢たちが急に黙った。スープの匙を止めて、ちらっとこっちを見て、また自分たちの会話に戻る。声が小さくなっていた。


前は気にされていなかった。公爵家の令嬢として当然のように座っていて、誰も特別に意識しなかった。それが今は、私が入るだけで空気が変わる。


ライナスが何事もないように自分のスープを飲んでいた。フィオナは遅れて来て、「すみません、道に迷いました」と言った。嘘だ。この子は道を間違えない。何か別の理由で遅れたんだと思うけど、聞かなかった。


食事を終えて廊下に出たとき、すれ違った騎士が目を逸らした。朝に挨拶をくれた人だった。


その先で、年老いた使用人が窓拭きをしていた。脚立に乗っていて、手が届かなくて苦労している。


通り過ぎるはずだった。アリエスの足は止まらない。でも——目が合ってしまった。使用人がこちらを見て、びくっとして、脚立の上で体がぐらついた。


手が出ていた。脚立を押さえていた。いつ動いたのかわからない。


使用人が固まっている。告発されている令嬢が、自分の脚立を押さえている。


「……続けろ」


アリエスの声で言って、手を離して歩き出した。背中で使用人が何か言おうとしていたけど、聞こえないふりをした。


午後、お茶の時間にフィオナが来た。


「アリエス様、お菓子もらったんです。厨房の人がくれたの」


手のひらに載せて見せてきたのは、焼き菓子だった。丸くて小さくて、砂糖がまぶしてある。


「一個しかないんですけど、半分こしましょう」


「いい。お前が食べろ」


声がそう答えた。アリエスの返事。でもフィオナは聞かない。


「だめです。半分こです」


割ろうとしたけど、丸い形だから上手く割れなくて、大きいほうと小さいほうになった。フィオナが大きいほうを私の前に置く。


「……逆だろう」


「もらったのは私ですから、渡す側が選ぶ権利があるんです」


へんな理屈だった。でもフィオナがにこにこしていて、何も言えなくなった。


「はい、アリエス様のぶん」


手のひらに載せてくれた。温かかった。さっきまでフィオナが握っていたから。


焼き菓子を口に入れた。バターの味がした。


あの部屋で最後に食べたものが何だったか、思い出そうとして、思い出せなかった。コンビニのお兄さんがくれた菓子パンだったかもしれない。味は覚えていない。


でも今のこれは、覚えている。バターの味と、砂糖のじゃりっとした舌触り。


フィオナが自分の小さいほうを食べて、「おいしい」と笑った。


「アリエス様はどうですか」


「……普通だ」


「嘘。目がちょっと細くなりましたよ」


見ないでほしい。そういうの、見ないで。


ヴァネッサの笑顔を思い出した。あの甘い匂い。証人を集めている手。この子の笑っている隣で、じわじわと追い詰めてきている。


怖い。


でもアリエスの体は怖がらない。背筋はまっすぐだし、表情は崩れない。


私は今、その体に守られている。アリエスの強さに、乗っかっている。


それでいいのかな。ずるいのかな。自分では何もできないくせに、アリエスの体が強いから平気な顔ができている。


わからない。でも、前を向くしかない。アリエスがそうするから。


廊下の窓から、夕焼けが見えた。空がオレンジ色で、雲の端だけが白く光っている。


きれいだった。怖いのに、きれいだった。


次話:「帰る場所がある人」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ