第1話「この子のこと、しっている」
足の裏が、冷たい。石。硬くて、つるつるしてる。
……あれ。
私、布団にいたはずなのに。
目を開ける。暗い。でも私の部屋じゃない。天井が高い。すごく高い。何かが燃えている匂いがして、壁に影が揺れている。
(なにここ)
わからない。でも心臓がどくどくしている。体が勝手に起きている。立っている。さっきまで指一本動かせなかったのに。
手を見る。
白くて、細くて、爪がきれいに整ってる。
これ、私の手じゃない。
私の手はもっと荒れてた。指の皮がめくれて、夏でも乾燥して、爪は短く噛んでた。
(なにこれ)
廊下だ。長い廊下。壁に鎧が飾ってあって、窓の外は夜で——
知ってる、ここ。何回も読んだ。アリエスがいつも夜に一人で歩く廊下。燭台の光だけが揺れるって書いてあった、あの廊下。
でも、なんで私がここにいるの。
お話の中でしょ、ここ。スマホの画面の中の場所でしょ。
声を出そうとする。
「——」
出た声が、自分のじゃない。もっと低くて、落ち着いている。
(うそ)
廊下の向こうで、足音がする。
軽い足音。走ってるみたいな。扉が開いて、女の子が顔を出す。
金色の髪。くるくるの巻き毛。丸い目。
知ってる。この子のこと、私はしっている。
「アリエス様! こんなところにいたんですか、探しましたよ」
フィオナ。
アリエスのそばにいつもいる子。笑うと左の頬にだけ小さなえくぼが出る、あの子。
この子はお話の中の人で、でも目の前にいて、私にしゃべりかけてきてる。
私のことを、アリエスって。
……私が、アリエスになってるの?
この手。この声。この廊下。
口が動く。
「……少し、歩いていた」
自分で言おうとしたんじゃない。勝手に出た。声も、言葉の選び方も、私のものじゃない。アリエスのものだ。
フィオナが首を傾げる。
「夜中に一人で? また眠れなかったんですか?」
体が答えを知っている。頭が追いつく前に、声が出ていた。
「……そんなところだ」
フィオナが笑う。お話で読んだ通りの顔だ。
「じゃあ一緒にいますよ。私、眠れない夜は得意なんです」
怖がってない。悪役令嬢のそばにいるのに、全然怖がってない。
(この子、ほんとにこういう子なんだ)
画面の中で読んでたときは、いい子だなって思ってた。でも今、目の前で笑ってる。
なにが起きてるのか全然わからない。
でも——
この子の笑顔を壊しちゃいけない。それだけはわかる。
「……好きにしろ」
口が勝手にそう言って、フィオナがまた笑った。
次話:「余計なことを、と言いながら」




