白い空間
(今の声は……? それに、この白い世界は何なの?)
建物の中ではない。淡く輝く空間が存在するだけ。
光源はわからないが、木漏れ日や朝霧のように涼しげな光だ。
森林のような清々しさもある。
ほんの少し前まで火刑台にいたのに、何が起きたのか?!
カテリーナは己の姿を確かめた。
みすぼらしい下着姿のままだが、あるはずの傷や血の染み、痛みが無い。
体の重みすら感じられない。
体を左右によじったが、夢の中で体を動かすような感覚だ。
床はあるような気がするが、どこまでも真っ白な世界だから上下左右の距離感がつかめない。
不思議な白い空間。
でも何故か、慣れ親しんだ場所のように思える。
(ここは天国? ……いいえ。私は信仰を捨てたもの。天国に行けるはずがない)
再び、誰かの呼び声が聞こえた。
「カテリーナさん」
恐る恐る、声のする方へ振り向く。
10歩ほど先に眼鏡をかけた若い女性がいて、こちらに会釈した。
(どこかで会ったことがあるような?)
どういうわけか懐かしさを感じる。
象牙色の肌、真っ直ぐな黒髪は後頭部で一つに結われている。
遥か東方の国の民と思しき女性だ。
カテリーナは東洋人の美醜や服飾がわからない。
10代後半くらいに見えるが、東洋人は見た目が若くても実年齢はかなり上だと聞く。
もしかしたら30歳を越えているかもしれない。
(きっと、平民だわ……。刺繍ひとつない黒無地の上着とズボン、黒い靴。白いシャツを着ているけど襟や袖にレースがないし、装飾品を身に着けていないもの)
そう思いつつ、カテリーナは謎の女の顔を凝視した。
会釈でズレたのか、こげ茶色の枠の眼鏡が少し斜めになっている。
(風変わりな眼鏡ね。それに……男装しているの? だとしたら、キリスト教徒ではないわね)
まさか、オペラ(物語のセリフを音楽で表現する総合舞台芸術)のズボン役(男装する女性歌手の役柄)でもあるまいが。
(これは、死ぬ前に見る夢なのかしら?)
「もしも~し? カテリーナさん。大丈夫ですかぁ?」
木管楽器のように軽やかで豊かな響きだが、緊張感のない声だ。
「あなたは……え?!」
喉を潰されたはずなのに普通に話せる。
だが、話す時に伴う喉や唇の感覚がない。
自分の話し声が頭の中で響くような感覚だ。
(口は動いているのに、体から出た声ではない……?)
女性が一歩近づく。
カテリーナは警戒して一歩下がる。
「あ、すみません。私、思いっきり不審者ですよね?」
睨みつけ、もう一歩下がる。
何者かわからないが、すべてを疑わねばと心した。
無害な善人に見えてもだ。
マリアは聖女の皮を被った悪魔だったではないか!
「そぉーれっ! 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10!」
掛け声とともに、女性はこちらを向いたまま勢いよく後ろに下がった。
突然の奇行に、カテリーナは何事かと面食らう。
「すみません。距離が近すぎましたね。私は味方です……と申し上げても、すぐには信じられませんよねぇ」
20歩ぶん距離が離れているのに、声の大きさは同じだ。
「カテリーナさん。苦難の多い人生でしたね。お疲れさまでした。ひとまず、ここで休憩なさってください」
謎の女はそう言い、カテリーナに優しく微笑みかけた。
「あなたは、どなたですか? 私をここに連れて来たのは、あなた? その黒い衣装は、まさか……死に神?!」
謎の女性がズレた眼鏡をかけ直す。
「私がお連れしました。でも死に神じゃありません。あ、もしかして、この格好が怖いのかな……これでは?」
そう言って左手の指を軽やかに弾いた瞬間、女性は貴族令嬢が纏う華やかなドレス姿に変わった。
高く結い上げた髪には大きなダチョウの羽飾りと帆船模型が飾られ、手には房飾りのついた扇を持っている。
「マリー・アントワネットがフランスのオシャレ番長だった頃って、こんな感じですよねぇ?」
「……魔法使い」
幼いころ祖母が語ってくれた民話の世界に迷いこんだのだろうか?
「魔法使いでもないですよ。ここは魂だけが来られる場所。想念の世界なので、イメージするだけで変身できるのです。あなたもお好きな格好をなさっては?」
「魂だけが来られる世界?!」
だから体の感覚がないのかとカテリーナは納得しかけたが、得体のしれない女の言うことを鵜呑みにできない。
「そんなこと、できるわけない……」
否定しつつも目をつむり、貴族令嬢として暮らした頃の姿を思い浮かべる。
数秒後、目を開けると……
なんと! 自分がイメージしたドレス姿に変わっているではないか。
カテリーナはその場にへなへなと座りこんだ。
「はい。鏡」
大きな姿見が一瞬で現れ、着飾った姿で腰を抜かすカテリーナを余さず映す。
「ありえない。ありえないわ! あなたは悪魔なの?」
「え? 私? 哺乳類霊長目ヒト科で……ってぇ、一応、人間のカテゴリーに入っていますが」
「人間にはできないことよ」
「ここでは可能です。あなたもできたでしょう? 他にもいろいろできますが、今はやめておきましょう」
カテリーナは呆けた顔で鏡に映る自分を見つめた。
(これは死の直前に見る夢よ。今も火刑台にいて、苦痛のせいで幻覚を見ているのだわ)
想像の限界をブッちぎりで突破した妄想か幻覚に違いない。
こんな奇天烈なことは、生まれてこのかた一度も考えたことがないのだから。
「妄想でも幻覚でもありません。これが今のあなたの現実でぇす」
「そんなはずないわ! 私は火あぶりにされたのよ」
「それも現実ですねぇ。まあ、魂も人生も実体なんてないようなもの……色即是空、空即是色(仏教の経典『般若心経』の一句)」
「……何が何だか、わからないわ」
だが、今はひとまず、この現実を受け入れるしかない。




