第9話 「帰省」
突然、何かが垂れてきた。
それは自分の鼻血だった。
手の甲で拭うが、まだ止まらない。
だが、どうでもよくなるくらい身体が怠くて動かなかった。
しばらくの間、俺はレグナートとラーテルとともに、その場にへたり込んでいた。
気まずくなったのか、あるいは報復を恐れてか……
兵士たちはいつの間にか姿をくらましていた。
「郁斗……すまなかったな……」
あの高潔な印象のレグナートは、まるで別人のように萎えていた。
「あいつら……魔力が戻ったら殺してやる!」
ラーテルは床に仰向けになっており、悔しそうに天井を睨んでいる。
「よせ……彼らも必死なのだ」
「でも、これから三年だぞ!?
“禁忌の実”が、あんなことになってるんだ!
地球は崩壊……俺たちだって、生き残れるか分らんぞ!?」
「それでも、耐えるしかない……。
俺たちなら出来る。希望を捨てるな」
レグナートは、静かにラーテルの顔を見つめた。
その瞳には、いまだ執念の火種が燻っていた。
「くそっ! ……お前がいてくれることだけが救いだよ!
絶対諦めない。そうじゃなきゃ、これまでの三十年が無駄になる!」
「そうだ……その意気だ。生きて、祖国に帰るぞ」
二人はやがて、肩を組むように抱き合った。
竹馬の友。
そこには長年連れ添った者たちの、深い友情があった。
――しかし
(禁忌の実?
それって、深海のアビサル・フローラのことだよな……)
やっぱり、彼らは何かを知っている。
そのうえで、隠していたんだ。
彼らとは、ともに戦った仲間意識が芽生えている。
それ以上に、ともに絶望したことによる連帯感かもしれない。
ともかく、嫌いな人たちじゃない。
むしろ、好きかもしれない。
だが、それとは別に――やはり彼らは、今の世界になった元凶なのだ。
問い詰めたい気持ちと、下手に首を突っ込めば殺されるかもしれないという恐怖。
靄がかかったような思考は、どうにもまとまらなかった。
「郁斗よ……。こんな結末にはなってしまったが、君の行動は忘れない。
三年後、生きていたらここで会おう。
向こうの世界に渡った暁には、必ずや私たちの力で優遇することを約束する」
「えっ……」
「そうだな。お前をバカだと言ったことは訂正する」
ラーテルが、わずかに笑った。
「お前はその年で、すでに高潔な戦士だ。尊敬に値する」
二人の真っ直ぐな視線が、胸の奥をじんわりと満たした。
彼らが、どんな経緯や目的を持っていたかは分からない。
それでも、この二人だけは、悪い人だとは思えなくなっていた。
「……分かりました。じゃあ、お互い頑張って生き残りましょう」
俺は、彼らの言葉を素直に受け取ることにした。
レグナートが、その大きな手をこちらへ差し出す。
固く交わす握手。
それを見たラーテルも、俺へと手を差し出した。
◇◆◇
俺は、気怠い身体に鞭を打つように歩いていた。
その後、彼らは群衆へ向けて「無事に転移が完了した」と告げた。
ここで起きた出来事を、微塵も匂わせない立派な態度だった。
封鎖されていた門から、俺だけを外へ出してくれる。
両親とシッポは、この人込みでは見つからない。
鼻血は止まっていたが、まるで貧血のように眩暈が続いていた。
横になってしまえば楽だったが、東京に置いて行かれる訳にはいかない。
必死に足を動かし、かつての自宅へ向かう。
数キロを歩き続け――
車がまだ残っているのを見て、ようやく安堵の息が漏れた。
家に土足のまま上がり込み、大声で両親を呼ぶ。
しかし、返事は返ってこなかった。
ここは魔都――東京。
両親とシッポに何かあったのではないか?
その考えが浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
すぐさま来た道を戻ろうとした――その時。
聞き慣れた鳴き声が耳に届いた。
「――ワン! ワン!」
真っ白の毛並み。
ふわふわの尻尾が、嬉しそうに揺れている。
そして――その後ろに、二つの影。
その瞬間、俺はその場に崩れ落ちた。
安堵と一緒に、あの場で起きたことがフラッシュバックしたようだった。
滅茶苦茶に泣きながら叫ぶ。
制御不能となった感情。
「わ、わあああああぁぁん……。
お、おどうさん……おがああさん……」
「――い、郁斗!!!」
「郁斗なの!?」
二人は駆け寄ると、俺を強く抱き寄せた。
苦しいほど力強かったが、その体温がたまらなく嬉しかった。
父の涙……震える腕。
母は信じられないものに触れるように、何度も背中を撫でて確かめた。
シッポの毛並みから、懐かしいお日様の香り。
俺は、両親の胸の中で、子供のように泣き続けた。
◇◆◇
そこから俺たちは、すぐに東京を発つという決断を下した。
転移が出来なかった今、一秒だってここにいたくなかった。
――秩父に帰ろう。
また、自然の中で生きていくんだ。
帰りの車の中で、両親は何も問い詰めてこなかった。
あの場所で何が起きたのかを……。
俺は、自ら異界へ渡れるチャンスを蹴った。
本当に向こうへ行くべき人間なのかを、運命に委ねてしまった。
言わなくちゃいけない。
でも、両親を裏切ってしまった後ろめたさがある。
だが、黙っていることの方が、もっと大きな裏切りだった。
「お父さん……お母さん……。
ごめんなさい。実は俺――」
揺れる車内。
シッポを撫でながら、俺はすべての出来事を話した。
二人は、俺のバカな行動を責めることなく、ただ黙って聞き続けてくれた――。
「そうか……三年か。先は長いが、絶対に生き残るぞ」
「そうね。私たちなら、きっと大丈夫よ。」
二人は、静かにそれを受け入れた。
「俺のことを優遇してくれるって言ってた……。
お願いしたら、二人も連れてってくれるかもしれない」
十分可能性のある話だった。
自分で言うのもなんだが、好感度は高いと思う。
彼らの発言からも、義理堅い印象を受けた。
「ありがとう、郁斗……頑張ったんだな」
「えぇ……。何より、人のために動けたことが誇らしいわ。
普通はその兵士たちみたいに、自分の事ばかりになってしまうもの」
怒られると思っていた。
だから、二人からこんなふうに褒められるとは思わなかった。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
◇◆◇
三日ぶりの我が家は、何も変わっていなかった。
鶏に餌をやり、畑に水を撒き、湧水を汲みに行く。
シッポは久しぶりの散歩にはしゃぎ回り、そこら中にマーキングをした。
季節は再び、ゆるやかに動き出す。
しかし、変わったこともある。
体内で確かに感じられるようになった、魔力の流れだ。
意識して活性化させると、力が何倍にも膨れ上がる気がした。
事実、巻き割りも軽々とこなせるし、水の入ったタンクも片手で担げた。
使いすぎると、身体はひどく気怠くなってしまう。
だが、転移門のような無茶な使い方はしない。
生活するうえで部分的に使用する分には、不自由はなかった。
夏が終わる。
山々が色づき、そして稲を刈る。
秩父の山は、またすぐに深い雪に閉ざされるだろう。
――四度目の冬が、すぐそこまで来ていた。
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