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16年目(1195)

一月×日

 良経殿が伊勢勅使に任ぜられる。

 来月末、良経殿にお供する予定。


 神宮、か。

 西行法師はそこに「畏れ多いもの」を見たという。

 それが何なのかはわからないが。

 行けばわかるだろうか?



二月×日

 残念ながら内宮へ参拝させていただくことはできなかった。

 代わりに外宮の神事に参列させていただく。

 清冽な宮川沿いに牛車で進み、正面の鳥居から徒歩で境内に入る。

 神官らはみな、冠に木綿鬘(ゆうかずら)をつけていらっしゃる。

 木綿鬘は、明け方の雲や山にかかる雲のように、冠の下でたなびく。

 その連想から歌にもときどき採用される。

 たとえば『源氏物語』の


「住ノ江の松に夜深く置く霜は 神の掛けたる木綿鬘(ゆうかずら)かも」


のように。

 …...住吉の神。

 住吉の神に祈願してから、俺の人生はうまく回り始めた気がする。

 いつかお礼に行かなければ。



三月×日

 神。

 神とはなんだろう。

 我々はときどき、神を詠ずることがある。

 その際、単なる擬人法というよりも、何かもっと深いものを詠んでいるという気が、する。

 空を神に見立て、大地を神に見立て、海を神に見立てる時、何か神聖な心理が働いている気がする。

 いや、見立てという発想自体、すでに賢しらなのか。

 空を歌い大地を歌い海を歌う時、我々は同時に神について歌っているのかもしれない。

 花を、鳥を、風を、月を、雪を賛美するとき、我々は同時に神を賛美しているのかもしれない。


 しかしまぁこれらはすべて、理屈だ。

 西行法師なら、こんな知ったような口を叩くこともなく、ただ素直にあるがままに、神の息吹を感じるのではなかろうか。

 理屈ばかりの俺には、神のなんたるかなんて分からぬのかも知れぬ。


 しかしいずれにせよ、歌というのは神への御幣には十分であろうと思う。

 神に祈る代わりに、神に歌を奉じよう。


「契りありて今日宮川の木綿鬘(ゆふかずら) 永き世までにかけてたのまむ」



四月×日

 長女が生まれる。



五月×日

 我が息子 光家と、話をする。

 光家は「歌を教えてください」と目を輝かせて、俺に語りかけてくる。

 軽く手ほどきをしてやる。


 この子には、歌の才能が、ない。


 俺はどうにも、歌才がないものに、興味をもつことが、出来ない。

 我が子なのに。



六月×日

 元妻は、もうどうして良いかわからないくらい追い詰められていた。

 彼女から見て、俺と姫様はどうみても恋仲であった。

 明日にでも自分は離縁されるのではと不安だった。

 俺が唯一心を開く姫様のことが、妬ましくて仕方がなかった。

 しかし俺に興味を持ってもらう方途は、ただ不快な女を演ずる以外になかった。

 不快な女を演ずれば演ずるほど、妻に対する俺の態度は冷淡になっていく。

 そうすると彼女の不安と嫉妬はより増大していく。

 まるで底なし沼だ。


 そんなとき、本家から密命があった。


「呪詛の道具を渡す。これをあの男の部屋に置いておけ。機を見て我が一門の歌人が変死する予定だ。あとはわかるな?」


と言われたらしい。当時勢力を伸ばしていた俺は、六条藤家にとって邪魔であり脅威であった。

 俺のことをハメて、呪詛の容疑を讒訴することにしたらしい。


 彼女はその命令を無視した。俺を貶める代わりに、姫様を貶めることを思いつく。

 その道具を姫様に送る一方で、「かの内親王、八条院を呪いけり」との密告を入れた。


 上手いこと事は進み、姫様はとうとう出家した。

 さらに俺との関わりを断つ寸前まで行った。

 まぁ結局、今でも交流は続いているが。


「御母堂から貴方の様子を伺いましてね。なんでも捨てられ、飢えて、川で溺れている仔犬のような有様だったそうではありませんか? 流石にそんな状態の子犬を見捨てるのは仏の御心に背くと思い至ったわけです」


とは姫様の談。



七月×日

 姫様が出家して、俺はまぁぼちぼち凹んだ。

 いや、本当のところ前後不覚に陥るほど、凹んだ。

 あの頃のことは記憶が曖昧だ。


 元妻は「今が好機」と考えたらしい。

 弱った俺を慰めれば、自分に縋ってくれるのではないか?

 姫様を失った俺ならば口説けるのではなかろうか?

 そう考えたらしい。

 今から思えば、あの頃の彼女は、とても甲斐甲斐しく俺のことを世話してくれていたような気がする。

 俺に一目惚れだったと話してくれたのは、その頃だ。


 あなたの歌が好きだ。

 あなたの考え込んでいる顔が好きだ。

 あなたの純粋なところが好きだ。

 あなたの可愛らしい言動が好きだ。

 あなたの一生懸命なところが好きだ。

 あなたが好きだ。

 あなたさえいれば、良い。

 あなたが私を見てくれるなら、他は要らない。

 だから私を見て。

 私を見て。

 私を見て!

 なんでもするから。

 あなたのためになんでもするから。

 私を見て。


 俺は、言った。


「では歌を詠じてくれ。秀逸な和歌を。あの人の歌と同じくらい秀逸な歌を」


 その次の日、妻は実家に帰った。

 そのときの妻がどういう心境であったかを知る術は、もうない。



八月×日

 その後、姫様との交流が回復してから、八条院呪詛事件の全貌がわかった。

 俺は、知らぬ間に一人の女性を、どうしようもなく傷つけていたのだと、わかった。

 俺は愚か者だ。

 しかし俺がいくら愚者とは言え、もうどうにもならない。

 俺には、妻のしたことがどうしても許せなかった。

 それにあの頃は六条藤家との関係も最悪であった。

 両親と相談して、離縁することを決めた。


 二月のあの日は、妻と直接まみえて、最後の話し合いをする予定だった。

 妻はどういう反応を示すだろう。狂乱するだろうか。泣き喚くだろうか。


 俺の予想に反して、久しぶりに会った彼女は、

 晴れ晴れとした笑顔を、

 浮かべていた。

 思わず息をのむほど、

 綺麗な笑みだった。

 思わず見惚れてしまうほど、

 蠱惑的な笑顔だった。

 見惚れてしまったのが、

 悪かった。

 彼女は小走りしてこちらに近づいてきた。

 母が俺の前に出た。

 布が裂ける音がした。

 母が崩れ落ちた。

 何が起きたかわからなかった。

 辺りが騒がしくなった。

 衛兵が俺の近くに駆け寄ってきた。


「もしも私を憐れんでくださるなら」


と声がした。

 彼女が俺の眼前に立っていた。

 彼女は自らの首筋に何かを添えていた。

 血のついた小太刀だった。


「私に歌を、ください。私のための歌をください。私だけのために詠じてください。私の大好きなあなたの歌を墓前に添えてください」


 そして血飛沫が散った。

 彼女は崩れ落ちた。

 最後まで、笑顔を絶やさなかった。



 正気に戻った俺は、倒れ伏した母を抱え込んだ。


「まったく。ロクでも、ない子だ、よ。私は、あんたの尻拭い、ばかり。こんだけ苦労かけたんだから、せいいっぱい、幸せに、ならなきゃ、ゆるさ、ないよ」


 それが母の最後の言葉だった。



九月×日

 俺は、他人の気持ちがわからぬ男だ。

 どうすればよかったのだろう。

 どうするべきだったのだろう。

 どう贖えばよいのだろう。

 ここ数年、贖罪の仕方を考えない日はない。

 最後に彼女は「歌を詠じろ」と言った。

 しかし、何を詠ずるべきか、わからない。



十月×日

 とうとう耐えきれなくて、姫様に相談をした。


「真剣な面持ちで相談があるなんて言うから、何かと思えば。そんなことで悩んでいたのですか」


姫様は言う。


「愚かな人。別にあなたが罪の意識を感じる必要はありません。あなたは確かにあの人に冷たい態度をとったかもしれませんが、あなたはそれ以外の態度をとれない人です。他人と上手くやっていけない人です。治せと言われても治せないダメダメ人間です」


姫様は言う。


「治せないものを、治しようがないものを何とかしようだなんて考えるから、そんなに切羽詰まるまで悩み苦しむのですよ。諦めなさい」


姫様は言う。


「そもそもあの方が悪いのです。好きなら好きと、最初から言えば良かったのです。なのに中途半端な態度をとるから、あなたには伝わらなかったわけでしょう? あなたみたいな愚かな人に『察してくれ』という態度をとっても意味がないのに」


姫様は言う。


「それに誰が悪いかというなら、私が悪いに決まっています。約定を破って、あなたと密会したのは事実ですし。責めるなら自分ではなく私を責めるべきでしょう」


姫様は言う。


「それでも罪の意識を感じるというならば、」


姫様は言う。


「よろしい。私が許しましょう」


姫様は言う。


「悠久の約定に従い神聖なる卜占によって定められし第31代目 加茂皇宮於斎王(かものすめらぎのみやにていつくおうきみ)たるこの私が、愚かなあなたを許しましょう。あなたの愚行を許しましょう。あなたのすべてを許しましょう。だから、ねぇかわいい人」


自分を責める必要なんてないのですよ、と姫様は言う。

 俺の心は少し楽になる。



十一月×日

 楽にはなったがそれでもやはり、妻に捧げる歌が思いつかない。


「それはきっと、あなたが、あの人の気持ちをよくわかっていないからです。なるほど自分の妻はどうやら傷つき悩み苦しみ妬み、そして自死に至った。そのことはわかる。しかしどうしてそうなったのかがわからない。あなたには、彼女の感情はわかっても、彼女の心がわからない」


姫様の言う通りだ。

妻が辛かったということは、わかる。

しかしどう辛かったのが、わからないのだ。

俺には人の気持ちが、よくわからない。


「まぁ、あの方も複雑な心の持ち主ですからね。何をどう考えていたのか心中を察するのは、至難の技かもしれません。しかし、私には、わかります。あの人は、私やあなたによく似た心の持ち主です。ただ、歌の才能がなかっただけで。逆にもし私に歌の才能がなかったら、私はあの人と同じような凶行に、走ったかもしれません」

「俺には、永遠に彼女の気持ちは、わからないのでしょうか?」

「手立てはあります。あなたは結局、歌を介してしか他人の気持ちがわからぬ人です。和歌によってしか、相手の気持ちを慮ることができない人です。だから儚くなってしまったあの人の代わりに、私が歌を詠じましょう。あの人の鎮魂のために、あの人の気持ちを私が代弁しましょう」


そして姫様は詠じ始める。


「君をまだ見ず知らざりしいにしへの 恋しきをさへ歎きつるかな」


妻の気持ちを想像する。

夫のことを見知る前の昔が恋しい。昔に戻りたい。

こんな辛い思いをするならば、何も知らなかったあの頃に戻りたい。

でも、あの頃にもう一度戻ったとしても。

私はきっとあなたに恋をする。

もう一度あなたに恋をしたい。

そう思ってしまうこの狂おしいほどの恋しさを、今日も嘆く。


「あはれとも言はざらめやと思ひつつ 我のみ知りし世を恋ふるかな」


「愛している」といつか言ってくれると信じていた。

言ってくれるはずと信じてた。

信じて、待っていた。

じっと耐えていた。

素直にそう信じて待っていた、あの頃が恋しい。


「つらしともあはれともまづ忘られぬ 月日いくたびめぐりきぬらむ」


辛い辛い辛い辛い。

愛しい愛しい愛しい愛しい。

この苦しみも愛しさも、あなたに出会った頃から絶えることがない。

あれからどれほどの月日が巡ろうとも。


「恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしと 言ひしにあらず君も聞くらむ」


恋をして、恋をして、恋をして、恋をした。

ああ! 私を見て! 私を見て! 私を見て! 私は声にならない声をあげる。

あなたもそのうち知るでしょう。私がもうこれ以上、生きていることはできぬということを。


「君ゆゑやはじめもはても限りなき うき世をめぐる身ともなりなむ」


あなたのせいです。

あなたのせいで、始まりも終わりもない輪廻にとらわれて成仏できない。

だから、


「だから、泣いてなんかいないで、ちゃんと鎮魂してあげなきゃ、ダメですよ? 」


気がつくと、俺は泣いていた。


ああそうかと思う。

何も難しいことはない。

妻は俺に恋をしていた。

その恋は、実らなかった。

ただそれだけのことだ。

そう考えると、妻の気持ちが、腑に落ちた。

それと同時に、涙が溢れて、止まらなかった。



十二月×日

我ながら歪んでいると思う。

姫様の歌を聞いて、彼女の気持ちがわかったようなつもりになってしまった。

彼女が本当はどう考えていたかどうかと関係なく、姫様の歌こそが彼女の真意という気がしてしまう。

現実の心情よりも虚構の心情に、納得してしまう。


「あなたが輪廻転生を何度繰り返したところで女心なんてわかりはしないのですから。考えたところで無駄です。つべこべ言わず歌を詠じて鎮魂して差し上げなさい」


と姫様に言われてしまった。

まぁ、それもその通りだなと思う。

毎年命日に、墓前に歌を捧げるとしよう。

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