12年目(1191)
四月×日
姫様はだいぶ復調してきたらしいと、風の噂で聞いた。
出家後にまた病を患い、一時は危篤まで行ったというから、流石に心配していた。
しかし喜んでばかりもいられない。
姫様の姪御殿は、儚くなってしまったらしい。
いよいよ姫様に対する陰口が強まっている。
五月×日
宮中で呼び止められた。
相手は、六条藤家の顕昭殿であった。
「ご無沙汰しておりますなぁ。お父上はご壮健かな? 最近の御子左家の御躍進は目覚しいものがありますが、かの九条からの借り入れも多いと聞き及んでおります。あまり無理をなさるのも考えものですぞ」
顕昭殿は笑みを浮かべてそう言う。
が、目は笑っていない。
俺はまずい人に会ったなぁと思った。
顕昭殿は、敵対派閥たる六条藤家の重鎮。
九条家・御子左家の歌風に対する批判の急先鋒をつとめる御仁だ。
今の挨拶も「身分不相応に九条家の威光を借りやがって。虎の威を借る狐め!」程度の意味である。
これだけでも相手をするのが気が重いのだが、
「ところで、たしか貴方様のところには、我が六条藤家の女が嫁に行っていましたなぁ。あの娘はよくよくやっておりますか?」
「......不肖ながら、妻はいま実家に帰ってしまっておりまして」
「おおそれはそれは御愁傷様です。才気煥発な貴方様でも、嫁の気持ちは汲み取れませぬか」
どうせ知ってるくせに、と俺は内心で呟く。
「しかしまぁ鬼の居ぬ間に洗濯を、とも言います。もしも懸想なさる方がいらっしゃるなら今が好機ですぞ。なぁにバレはしませぬよ。相手がよほど噂の中心にいらっしゃるのでもない限り」
六月×日
「顕昭殿も焦ってらっしゃるのだ」
良経殿はそう仰る。
「ただでさえ勅撰集編纂を賜れなかったことに、ひどく心を乱しておいでだった。それでも御子左家が弱小貴族であったから、まだ我慢できたのだろう。それが今や御子左家は六条藤家の権勢を超える勢い。それは焦るであろう」
自分で言うのもなんだが、御子左家の立て直しっぷりは確かに近年目を見張るものがある。
政治的権力は九条家におんぶでだっこされている状態だが、歌壇においては今や九条家よりも立場が上だ。
もともとは俺も父も、九条家の派閥に加えてもらっていたに過ぎない。
しかし兼実殿に、
「現在の歌壇を牽引するのは間違いなく貴方ら父子。であるならば、歌道においてはウチが御子左家の傘下に収まるのが道理」
との身に余るお言葉を頂いた。
良経殿も慈円殿も「然り然り」と賛同なさった。
とても光栄なことではある。
だが、なかなか面倒なことになってきた。
御子左家派閥と六条藤家派閥との溝が日に日に深まりつつある。
歌壇においても政治においても。
加えて、妻は現在、六条藤家の実家に里帰りしてしまっている状態。
話が猛烈にこじれていく。
良経殿なんかは「離縁してしまえ。後妻の面倒なら幾らでも見てやるぞ」と仰る。
七月×日
「元気そうでしたよ」
見舞いに行った母からそう告げられた。
俺はホッとした。姫様は出家以来、会うどころか文もくれなくなっていた。
あの姫様は聡明なようでいて、時々よくわからないことに拘って、子供のように頑なになることがある。
「出家したので俗世との縁は一切断ちます」とでも言うかと思ったが、母の見舞いの申し出には快諾したらしい。
俺の申し出には無視を決め込んでいるが。
「貴方にもあの方にも立場があります。去年の暮のように取り乱して、門の前で喚き立てるようなことのないように」
母にそう釘を刺された。
八月×日
梅の香がした気がした。
ふと真夜中に目が醒めて、辺りを見回す。
当然、誰も、いない。
なんとなく寝室を出て、渡り廊下に足を運ぶ。
今宵は朧月夜。
何か夢を見ていた気がする。
梅の香りが霞のように、辺りに立ち込めている夢。
なにか幸せな夢であったような気がする。
いや、夢の香だけが印象に残って、何の夢を見ていたのか、まるで思い出せない。
夢から覚めてもまだ、夢の中にいる気がする。
暗闇の中で、霞んだ月光だけが、辺りを淡く照らし、物の輪郭があやふやで。
魂が抜け出して彷徨っているのでは、という気がしてくる。
和泉式部の蛍の歌。
「あくがれる」、つまり「魂がさまよい出る」という語に、昔はピンと来なかった。
むかしは偉そうに、「気づき」がどうだのと、わかったような事を言ってはいたが。
何もわかってはいなかった。
「あくがれてしまう」。そういう事態があるのだ。
魂が抜けて彷徨うような、そういう心地があるのだ。
夢か現かわからなくなるような、そういうことも、あるのだ。
梅の香が「霞」のように立ち込めた夢と、「霞む」月が世界をぼんやり照らす現。
いや今が夢なのか?
今が夢なのか現なのか、だんだんわからなくなってくる。
梅の香りの記憶と、目の前のぼんやりとした光彩が、ハッキリと物事を考えるのを妨げる。
「花の香のかすめる月にあくがれて 夢も定かに見えぬ頃かな」
九月×日
「震災の時に、あの方を俺の寝室に通したのはあなたですか?」
母に尋ねてみる。
答え渋るかと思ったが、あっさりと「そうよ」と肯定された。
「あのとき、それはもう貴方のことを心配していらっしゃったのよ。なのに貴方ったら惚けたように毎日食っちゃ寝食っちゃ寝ばかりで」
「あの時は梁に押し潰さて、内臓もやられてましたから。どうしようもなかったじゃないですか」
「まったく貧弱なんだから。ちなみに去年の秋に、うちに招きいれたのも私よ」
「どうしてそんなことを?」
「あの方があまりに悲愴に懇願なさるから、絆されてしまったのよ。他意はないわ」
父の件でも絆されたといっていたな。
絆されすぎなんじゃないか?
「そうそう。それと今更だし、もう流石に気づいていると思うけど。あの頃、あの方からの文は、全部握りつぶされていたわよ」
十月×日
人の噂も七十五日というが、実際にはそんなに短期間で噂は消えない。
それでも最近やっと姫様の噂が下火になってきた。
「八条院とその姫君を呪詛し殺めんとした」
という噂である。
春にその姫君、つまり姫様の姪御が儚くなったため、「やはり云々」と、噂が長引いてしまった形だ。
......噂が長引いた原因は俺にもある。
姫様が出家したという報せを聞き、その理由が「出家によって身の潔白を証するため」と知った俺は、モノノケでも取り憑いたかのように狂乱した。
姫様がそんなことをするわけがない。というかそんなことをする理由がない。
八条院に恩はあっても恨む動機なぞあるまいよ。
噂によれば「幸せそうな母子を見て、生涯独り身の自分と比べ、嫉妬しての凶行」とのことだったが、馬鹿げている。
姫様がそんなことに嫉妬するわけがない。
あの人は、すべてを、諦めているから。
姫様に謁見を求めたが門前払。
その醜態は大勢の人に目撃される。
んで俺と姫様の噂が立つ。
妻は家を出て行ってしまった。
まったく、俺は本当に、愚かな男だ。
十一月×日
望月の夜に庭を見渡す。
いつだったか、姫様と一緒に見た風景。
かつて在原業平は、
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」
と詠じた。
「月は昔の月ではないのだろうか。春は昔の春ではないのだろうか。私は昔とは何一つ変わらないのに。なぜだか今日の月は、昔あの人と一緒に見た月や花と、違って見える」。
それは逆転した発想の歌だ。
普通は、「年月が流れ、自分はかわり、あの人とも別れてしまったが、月や花は昔と同様で変わりが無い」とする。
なのに「変わったのは私ではなく月の方だ。私は変わってなどいない」と強弁する歌だ。
それは捻くれた感情だ。
捻くれなければ泣き出してしまうような感情だ。
捻くれなければやってられぬ切なさだ。
捻くれるのは、弱いからだ。
弱いから強がって、頑なになるのだ。
十二月×日
少しずつ、妻についてわかったことを、書いていこうと、思う。
むかし妻は父に師事していた、らしい。
父の弟子は多く、俺も全員を把握しているわけじゃないから、知らなかった。
......才のあるものにしか興味がなかった、というのもある。
昔の俺はどこまでも傲慢であった。
妻は、俺に、一目惚れだったらしい。
俺のどこに惚れたかは、まぁ自分で書くのはこっぱずかしいから、やめておこう。
とにかく、心底、俺に惚れていたらしい。
恋い焦がれて恋い焦がれて、やっと漕ぎ着けた結婚だったらしい。
けっこう前から、妻は、うちの母を通して俺と接触を持とうとした。
一時期結婚の催促が多かった時期に、そういえば「六条藤家の良い子がいるから見合いしないかい?」と言われたことがあった気がする。
てっきり政略結婚だと思っていたが、妻から願い出た結婚だったという。
意外にも父は政略結婚否定派で、恋愛結婚至上主義なのだそうだ。
いや、母との馴れ初め話を聞く限り、意外でもないか。
とにかく父は俺と妻との縁談を、長いことのらりくらりとかわし続けていた。
しかし当時は六条藤家の方がウチよりも権力が強かったから、とうとう婚姻と相成ったわけだ。
婚約してから挙式まではけっこうな時間がかかった。
戦乱で情勢不安定だったためだ。
挙式を挙げたのは、婚約の翌年の九月であった。
俺が初めて妻の顔を見たのもその時だ。いや実際には何度か見たことがあったらしいが。
ともかく、妻としては、ようやく懸想相手と結ばれることになって、幸福の絶頂だった。




