御苑に溺れを拯う(上)
黄皓未だ至らざるその数日、宮中は暫し幾分の安らぎを得たり。また一夜、私は殿の後ろの御苑へ向かった。漠としたる間、故郷の初春の海風を纏う桜を偲ばずにはいられぬ――それは二千年の後、九州の海辺にのみ在る光景にて、眼の前のこの帝国の深宮とは、まさに一千年を隔てたり。されどこの安らぎの中にもなお一つの事が懸りておる。黄皓未だ至らず、対質未だ開かれず、一つの心はなお落ち着きなく。
千年の後に私の学びし数々の物が、今は一つ一つ脳裏を過る――溺れの息の絶えし方、気道の水に塞がれし様、心拍の止まりし後に何こを按え、幾たびの息を吹くべきか。本よりこれらは書の上の字、答案の上の題とばかり思いしに、ある日、この千年前の宮苑の深池の内に、私がこれを用いねばならぬ時が来るとは、思いも寄らざりき。
この数日宮中に事無く、私は身に添う医理を再び一通理めたり。前営の傷卒の敷料を、蒸留の烈酒を以て擦り洗う法に換え、宮人が偶さか風寒を病えば、私も手ずから看たり。されど安きに依るほど山雨の来らんとするを覚ゆ――黄皓未だ至らず、対質未だ開かれず、一つの灯の下ごとに、未だ説破されざる局を蔵すが如し。
御苑は極めて深く、夹道の両側の宮灯が、石径を白く照らしていた。尽きの方に一面の太液池、月の光が水面に舗かれ、碎けた銀の如く漾たう。四囲は自らの靴底が落瓣を碾く軽き響を聞くに静かなり。私が歩き行く時、突然「ぽちゃん」と一つ重たき響が、池心の彼たより聞こえた――魚の躍りにあらず、重物の墜水、衣が水を吸って重たき沈鈍なり。
引いて宮女の調べを外した悲鳴。
「姫様――姫様がお落ちなされた!」
同時に群れの中より七つばかりの男童が一人挤き出し、踮ちて声を張った。
「姉さんが落ちた! 早く人を救え! 早く人を救え!」
彼は危うく欄辺へ扑せかかりそうになり、傍らの老宮人に一把に死に掴み止められ、ただ跳ねて泣き叫ぶのみ。
私は足を抜いて走り、太湖石を回りて、すでに池辺が一かたまりに乱るるを見たり。四五人の小宮女が白玉の欄に趴いで泣き叫べど、誰も水に飛び込む者無し。この太液池は活水を引きて成り、中心は頗る深く、姫はすでに暫し水に落ち、さきほどのその一輪の漣すら散り尽き、水面は平らかに静かなり、明らかに人はすでに沈みおり。後に知る、姫は夜宴の煩わしさを厭い、身の側のこの小皇子を伴いて池辺へ月を看に来たり、振り返りて弟の手を引かんとせし時、足を滑らせて落ちたり――他の宮人が動静を聞きつき馳せ参るれど、唯欄辺にて泣くのみ、水に飛び込む者無かりき。
「退け!」
私は群れを挤き入り、帯を解き靴を脱ぐ間もなく、身を躍らせて池に飛び込みき。水は刺す如く冷たく、一たび包み上がり、衣袍が水を吸い、石を墜したるが如く重し。私は息を屏して潜り下り、指が池底の泥の中を一劃すると、一截の素の衣袖に触れり――彼女なり。私は腰より人を抱き挙げ、水を蹬って岸へ還り、欄に就いて姫を青石の上に平らかに置きたり。
姫は十三ばかりの年頃、名を劉昭といい、一領の藕荷色の宮装が濡れ透り、身に貼り付けり。彼女の顔は紙の如く白く、唇の色は青紫にて、双目を堅く閉ざし、長き髪は水草の如く石面に散らばり、指先さえ微かに蜷がり、あたかも何かを掴まんとす。私は彼女の鼻息を探れば――一片も無し。さらに胸廓を見れば、起こらず。指先で心口を按えれば、半ばの拍動も摸れず。
溺れの危うきは、「幾ばくの水を飲めるか」にあらず、水が気道に呛き込み、その一息を塞ぐに在り。気道一たび閉ざされば、酸素の供は絶え、数分を出でずして脳を損なわれ、心拍も随いて止まる。眼の前のこの子は、すでに気絶し心拍も無く――あと暫し遅れば、もはや手の施しよう無し。千年の後に「黄金の四分」という言有り、すなわちこの命を奪う隙間を指す。
「太医を召せ! 走して召せ!」
私は唖然とする宮女に向かって吼えたり、直ちに身を俯けて施救せり。
第一の歩は、気道を通じるに在り。私は二指を以て彼女の下顎を分かち、一手は額を支え、一手は顋を挙げ、頭を軽く仰ぎ正しく――気道通じれば、気こそ入るべきなり。彼女の牙関は堅く閉ざし、唇は涼たく、私は鼻翼を摘み、口を俯けて彼女の唇に覆い、緩やかに気を肺に吹き入れたり。一下き、二下き。吹くに急かず、彼女の胸廓が私の気に随いて微かに脹れ上がるを見るべし、それにて初めて真っ当に肺に吹き入れたるなり。これ口対口の人工呼吸なり、今私の唯一つ倚り頼むべきは、この書頁より持ち来れる手腕なり。
囲み見る眾はすでに泣くのを忘れ、唯呆と見たり――一人の青衫の男が濡れた石の上に跪き、一遍一遍姫の胸を按えては身を俯けて気を渡し、汗の珠が水と混じって石面に砸き落つる。彼らはこの治法を知らず、唯太医未だ至らず、姫はすでに息無く、この人は停めんとせぬ、と知るのみ。衣角を撰る者有り、身を翻す者有り、その小さき身を再看るに忍びず、あたかも一眼多く見れば死を認むるかと。
二口の気の後、私は双手を交え重ね、掌根を彼女の胸の正っ中に当て、垂直に下へ按したり。三十ばかり按しては、身を寄せて二口の気を渡す。力は足らねばならず、されど幼き子の嬌なる筋骨を傷つけてはならず。これ揉むにあらず、彼女の胸腔の中に、その止まりし心を、一下一下に「敲き」覚ますなり。




