夜に玄龍を探り姚顯斃れ、無字の素箋
黄皓未だ至らず、偏殿の蝋燭の火が揺らめいていた。
私と諸葛雲は先ず偏殿で候っていた。彼女の胸のその毒箭はようやく縫ってあるれど、素の布の下にまだ淡い赤が滲み、久しく立つに宜しからず、私は廊下の石凳に彼女を坐せ、外袍を彼女の肩に纏わせた。
「卿は休んでおれ」
私は低く言った。
「私は殿の後ろへ行って空気を吸おう、黄皓が一たび来たら、私が呼びに行く」
彼女は極めて軽く「うむ」と一声、されど目はなお私を追って離れず、あたかも私のこのようなくれがた独り歩くを不安がるかのようであった。
私はこの隙に乗じ、殿の後ろへ向かった。殿の門を出でれば、成都の夜が私を包み込んだ――五丈原の秋の寒さとは異なり、ここらの風には桂の実の甘さがまだ混じっている。義父はなお千里を隔てた軍幕の中で消息を候っておるに、私は今この帝都の深みに立ち、一瞬己が何年の身なるかも分からぬ思いに捉われた。たった今殿上で聖に面し、その一字一句が皆蜀漢の生死を圧していたが、この一口の夜風を退けて、かえって幾分の得がたき軽さを覚えた。
断魂坡の役、白毦兵は伏兵を尽く剿滅せしめ、残る敵の中より玄龍幇の生け捕りを一人活つ捉えきりき。その後生は反し縛られて私の前に引き出され、牙関を死に噛みしめ、半ばばかり経って実情を吐き出した――「上の者、軍師の命を要る。地歩、黄皓の上に在り」さらに逼問すれば、唯「成都玄龍幇、姚顯はわが幇主なり」と絞り出すのみで、それ以上口を開かず。糸口、ここに城西のその廃れた絹行に係ったり。
「幇がなれば、巢あり」
私は坊の外のその漆黒の屋影を見やり、すでに胸に計りあり。
「黄皓未だ至らず、この数日宮中は暫し安し。今夜、私らがこれを端たん」
諸葛雲がいつしか殿後ろへ付いて来て、私の後ろ半丈の陰影に立てり。彼女は休むと言いしに、終に不安がって、こっそり随いて来たり。この言を聞き、彼女の眸の光が夜の中に一瞬亮らかに、極めて軽く頷き、左臂を本づから護るように胸のそのようやく縫った傷を掩い、されど半ばの怯れも露さず。
「雲をも連れて行く」
私は言った。
――
玄龍幇の総堂は城西の旧市の深みに隠れ、元は一つの廃れた絹行なり。私らは斜め向かいの屋脊に伏し、雨は歇み、軒の水がしたたり落ちていた。
「幇主姚顯、今夜この中で堂会を開けり」
諸葛雲は私の耳元に贴り付きて低く囁き、息が耳殻を撫でた。
「護院十二、堂口二つ、皆暗哨あり。強かに闖じれば、九死に一生なり」
「こそと闖じる」
私は絹行の後壁のその半ば開きし荷窓を指した。
「彼らが会を開き、堂の中人多く眼雑なれば、かえってわが掩いなり――乱に乗じて忍び入らば、会散じて人浄まりし後よりも下手し易し」
彼女の眸の光が夜の中に一瞬亮らかに、頷いた。
私らは荷窓より潜かに入りし。絹行の内堂には数の気死風灯が燃え、姚顯は主位に端座し、七八名の頭目と低く計り議し、室は煙瘴に満たれり。二りの巡哨が身を翻した時、諸葛雲はすでに鬼の如く贴り付き、掌縁を一りの頸側に切り下ろせば、その人は声もなく軟らかに倒れ、もう一り未だ振り返らず、私は条凳の脚を掴んで横に薙ぎ、その膝窩を悶として地に倒したり。
「何者だ!」
堂の中が哗変す。姚顯は霍として起ち上がり、腰の九環刀を抜き、護院に囲むよう喝した。
諸葛雲はすでに場中へ掠め入り、短剣は軽く、関節の隙を専ぱら狙い、幾たりの護院も近づく前に点ち翻されたり。姚顯自ら迎え上がり、一刀を劈き下ろせば、彼女の剣脊に格て開かれ、二人瞬時に数の招を拆いたり。
されどまさにこの時――
暗處より突然一箭射て来り、諸葛雲に向かうにあらず、私に向かうなり。
私は本より側翼にて陣を掠めており、この箭は来るが刁に、避くるに及ばず。諸葛雲はすでに身を返し、剣は未だ回防せず、彼女は左臂を以て一格せんとす、「ぷつ」と一声、箭鏃が彼女の小臂に扎し込み、血が瞬ち素の衣袖を滲ませたり。
「雲!」
私は撲せて行き、一把に彼女を扶けて柱の後ろへ急に退けたり。
彼女は唇を咬みしめ、額の際に細き汗を滲ませ、されどなお反し手に剣を握り、私を身の後ろに護れり。左臂は垂れ、血は指節を伝って滴り、武力はすでに泰半を去り、一声の悶呼も泄らさず。私は胸の底が一つ沈むを覚えた――この女、さきほど私を替わって箭を凌ぎし時、眼を眨かせもせり。
姚顯は状を認て狞り笑い、刀を提げて逼り寄った。
「小娘めは廃れたか、この書生めを――」
言の終らぬ先、私は地に倒れし諸葛雲の掃き倒したる頭目の落としたる短棍を掴み、彼の刀鋒に斜めより攪き入れ、棍の端を九環刀の環隙に卡し込め、彼の前に衝する勢いに乘じて猛かに一捻り。姚顯の虎口が痺れ、刀は手を離れて飛び出たり。諸葛雲は左臂を傷つけしれど、右腕は稳やかなり、彼が兵器を離つに乗じ、短剣をもってその咽喉に抵てり。
「動けば」
彼女の声は雪に浸した如く冷たく。
「即ち卿を路に送らん」
姚顯は僵として立ち、顔色灰敗たり。
私らは彼を内堂へ引きずり入れ、書案と暗格とを尽く繰さがした。終に、仏龕の後ろの一つの動く磚の下より、焼かずに残れる一通の密書を摸り出したり。
信箋は上等の蜀中の楮紙にて、墨跡は新しく写し、措辞は簡にして却って森冷なり。
「弘正は多事に、すでに大事を碍す。玄龍幇の姚顯に著せ、成都の城の中にて此人を截殺せよ、屍首は持ち帰るに及ばず、跡を毀たれば可なり」
落款無し。空白の末は、声なき冷笑の一面の如し。
私は信箋を灯に就けて細かに見た。紙は上等の楮料なれど、市場に流通せず――簾紋は細密にして匀浄なり、宮中特有の漿香を帯び、辺角には極めて淡き内府の水印を印す。この等の紙は、民間には絶えて無く、朝中の尋常の官たりとも経手すること難く、唯皇帝の御用なるか、あるいは身に貼り付きて禁中に直入し詔を擬せる侍中のみ、これを取り得たり。
姚顯は短剣を咽喉に抵てられ、突然口を歪めて笑い、その笑に毒意満ちて言った。
「お前は……この紙を得たとて、誰なるかを調べられようか」
彼の眼底に緑の光一閃、猛かに頭を斜めに偏し、牙関を狠く噛みしめ――
「ぷつ」と一声の悶響、一股の黒き血が彼の唇の際より涌き出たり。彼の身が一抽し、直ちに挺として栽れ倒れたり。頸の間にいつしか毒囊を蔵し、須臾の間に自ら絶てり。
「姚顯!」
私は一把に彼の衣領を揪き挙げたれど、人はすでに軟らかに下り、瞳は散り開き、もはや半ばの声も無し。
死に臨みてのその残り句は、釘の如く耳に扎さる。
「……朝廷のその方、地歩、黄皓の上に在り……」
余音散り尽きぬ。糸口、ここに断えたり。
私は徐々に手を放ち、地に冷たくなりゆくその屍を見やり、再び手にするその一葉の無字の素箋を低かれたり。
署名無し。口供無し。唯の生け捕りは、自ら牙関を噛み砕きたり。
されど糸口断え、案は未だ死せず。
私はその薄き紙を攥り、さきほどの一処一処の細かを脳裏に再び舗き開き、糸の頭を逆に辿って返し推したり。令を下せし者は私を殺めんと欲し、位は黄皓の上に在り。密令は宮紙を用い、唯禁中の核心のみ発し得たり。玄龍幇は借りたる刃に過ぎず、真っ当に柄を握るは、宮牆の深みに蔵れたり。
今の朝堂を繰さがし、黄皓の上に居し、なお禁中の機要を掌る侍中にて、ただ二りあり。董允、陳祗。
董允……私が『三国志』を読みし時、この人は出名の剛正なり、後主が黄皓を偏愛するも、彼は敢えて当庭に斥し、陛下がその閹竪を圧えしを助けたりと記しおぼえあり。この等の人物が、ひそかに黄皓と結び、丞相の欽差を截殺せんとせむか。情理に合わず。ましてや、彼がもし真に黄皓と同流せんと欲せば、何ぞ屢黄皓を約束せしや。「黄皓の上に在り」の五字、彼の身には落ちず。
然らば残るは、唯陳祗のみ。
史書の中私の彼を知ること詳らかならず、唯ぼんやりと覚ゆ、この人の後に黄皓と交わり好く、次第に機要を掌るに至れりと――一つの侍中として、もし江湖の幇会を借りて暗殺を行なわんと欲し、また黄皓の死士の令を借りて人の目を掩わば、位・手段・時の機、皆すべからく合う。その無字の密令、紙は宮紙にて、令は禁中より出で、黄皓の上にて号令を発し得る侍中……
私の指先が案の際を一扣し、あわやその名を吐かんとせり。
陳祗。
嘆すべきは、これ唯推演なり。素箋は無字、姚顯はすでに死に、生け捕りの糸口はここに断えたり。私はその薄き紙を攥り、あたかも水面に露われし一つの糸頭を握るかのよう――糸の向こう端に誰かあるは、すでに七八分推し量れるれど、なお最後の一截の実証を欠く。
真っ当に私が命を要るは、黄皓の上に蔵れたるに八分の確からず、この人なり。唯……聖に面する時、再び彼と総帳を算えんことを待つのみ。
雨後の夜風が堂を穿ちて過り、諸葛雲の零れた鬢の髪を吹き動かす。彼女は柱に凭れ、左臂はなお血を流し、顔色は白く透明の如くなれど、顔を挙げて私を見、唇の際に極めて淡き弧を引き、あたかも一息をつき、または……別の物が、眼底にこっそり化開けしが如し。
私は鬼が手を差し伸べしに、その一縷の髪を彼女の耳の後ろへ別け、指腹が彼女の微し涼たき耳殻を不意に擦り過ぎたり。
彼女は避けず。挙げたる眼の中、さきほど灯火の下で氷を淬ねた如き冷たさは、いつしか解け、一重の濡れったい亮らかさとなり、ただまっ直ぐに私の顔に落ち、閃めかず、避けず。睫が極めて軽く颤え、あたかも二十年蔵され、敢えて攤開すべからざりし物が、ついに攤開して一眼見るを許したかのよう――戒めにあらず、推し拒みにあらず、唯何かが、彼女の眼底にこっそり化開け、彼女自らもなお弁えきれぬなり。
私は元より二千年後のその人なり。この世の人らには、男女の防ぎが骨に刻まれたり。かえって私には、彼らよりも一分の顧みずに胆あるなり。
私は身を俯けけり。彼女が退くに及ばざる刹那、吻を上げたり。先ず彼女の涼たき唇の際に、再び抵し開き、含みしに。
彼女は一身僵として一瞬。
さきほどまで安らかなりしその双の眼が、倏ち円く開き、瞳が微細に拡大し、あたかも不意を衝かれし物に当てられしが如し。呼吸は喉の間に卡し、半ばの息を提げ、上がらず下らず、唯胸が明らかに一滞す。私の衣襟を攥れる指が意識せず緊張し、指節が白くなり、肩背のその束胸の素の布の下の身は、先ず弓を満たせしが如く強く張り、また私の掌が上に贴る時、一寸一寸力を泄らし、軟らかに下りぬ。
沙場にて刀を提げ、朝堂にて身を隠し二十年の将軍、かつて誰にもかく近づかれたること無かりき。
私は少し退きて、彼女に喘ぎの余地を与えたり。彼女はこの時初めて「あ」と一声、極めて軽き気の音、あたかも水底より浮かび上がりしが如く、眼尻に一抹の薄紅を泛め、耳殻より頸を伝って焼け広がったり。彼女は推し開かず、唯額を再び私の肩に抵て返したり、この一度は力重く、あたかも自らをより深く埋めんとす。
言を費すに及ばず。ある言は、この時の静けさが、万語千言よりも真なり。
私はその無字の密令を懐に密かに揣り込めきりぬ。陳祗すでに手を下したれば、もはや私を生きて京を去るを容すまじ。明日こそ、考えねばならぬは――いかにこの一本の釘を携えて、全身以て退き、かつ彼に私已に識破せしを覚えしめざるや、なり。
風の中、また五丈原のあの夜の秋の音が聞こゆるが如し。




