第30 隠し棚に証拠を索る(下)
わたくし、言を承けて、語氣沈穩に、諸將の疑いを解き、「諸將の軍、わが等が今出で擊たざるは、恐るるにあらず、ただ待つなり。何を待つや? 一に待つは丞相の身が徹底して全癒え、みずから大軍を率いて長途の奔襲せしめんことを;二に待つは後勤が徹底して固まり、糧草軍械に後ろの憂え無からんことを;三に待つは——江東の消息なり。」
「江東?」魏延、呆け、「そなた、いわく……孫権か?」
「さにあり。」わたくし、頷き、目光東方に投ず、「曹魏最も強く、わが蜀と呉は唇歯相依る。昔丞相、曾て孫権と盟約を締結し、共に天下を分かちき。今、わが等が渭水に於て司馬懿と死に戰い、もし江東同時に兵を淮南に出でせしめ、曹魏の東線を攻ば、魏軍は二線に作戰せねばならず、首尾相顧り見ること能わず。その時、関中の兵力牽制せられ、わが長安を取るや、易きこと手を反すが如し。」
これこそ隆中対より續きたる天下の大局面なり、またわたくしが布きたる第三層の伏線なり——呉と連ずるは一時の助戰のみにあらず、して呉蜀の同盟を再び活せしめ、一場の局地的北伐を、天下級の戰略的合圍となさしむるにあり。
歴史に於て蜀漢数度の北伐、皆な東呉の兵出でること力及ばず、觀望して進まざりしにより、功成らざるに敗れり。この世、わたくし、初めより、江東を戰局に引きずり込み、蜀漢をして曹魏の主力に獨り對せしめざらしめんとす。
諸葛亮、微かに笑み、言を承けて、「軍師の言、すなわちわが心中の計なり。昔赤壁、孫劉携えて曹操を大破し;今日五丈原、もし蜀呉再び合すれば、曹魏いかで敗れざらんや?」
彼、帳下の一文吏の装いせる人を看る、「鄧芝。」
「屬下、在り。」鄧芝、列を出で身を屈む。この人能く弁じ胆略人を超え、昔曾て命を奉じて東呉に使として赴き、辱なく使命を果たし、孫権を説きて蜀と盟を結ばしめ、蜀漢最も頂尖なる外交使者なり。
「わし、そなたを特使となし、わが親筆の書を執り、立ちどころに發ち、東呉に向い、孫権に面して會え。」諸葛亮、聲鄭重に、「そなた、孫権に告げよ、今わが軍五丈原にて司馬懿を大破し、亮の身康健なり、北伐の勢いすでに成れりと。もし彼、肯んじて兵を淮南に出でせしめ、曹魏の徐州、揚州を攻めば、日後中原を平らげん時、豫州、青州、徐州、幽州は呉に属し、兗州、冀州、并州、涼州は蜀に属し、司州の地は、天下を中分せん、と。」
これ極めて重き約束なり、また極めて大きき誘惑なり。
鄧芝、眼の色一つ振るい、「屬下承命す! 三寸不爛の舌をもって、必ず孫権を説き動かして兵を出でせしめ、丞相の託に負えざらんや、軍師が大計に辱かしめざらんや!」
「且らく。」わたくし、忽然として口を開き、鄧芝を呼び止む、「鄧先生、東呉に使として赴くや、数句の言ば、そなた、書の外に、私に面して孫権に親ら口ずけて告げるべきなり。」
鄧芝、拱手す、「軍師、お話し申せ。」
わたくし、聲を低くし、一字ごとくに清晰なり、「一に、司馬懿すでに五丈原にて慘敗し、関中震動し、曹魏の西線の兵力空虚なり、この時兵を出でば事半なして功倍し、座して漁夫の利を收めん。二に、もし江東兵を出でざれば、蜀漢ひとたび曹魏に敗れなば、次に滅びんとするは東呉なり。唇亡びて歯寒し、孫権一世の英雄、この理を知らぬあらじ。三に——」
わたくし、一息ついて、眼の色微かに冷たく、千年を越えし通透を透らす、「三に、孫権に告げよ、側の人を用心せよと。東呉の内、主和派、親魏派すでに蠢き出でたり。彼、なお猶豫し觀望せば、蜀の亡ぶを待つまでもなく、呉宮の内に、恐らく變亂生ぜん。」
第四層の伏線、密かに落ちたり——東呉の内穏ならず、孫権晩年昏聵なり、宮闘將に起こらんとす。わたくし、細かきを點破せねど、一句の「宮中に變生ず」をもって孫権を敲き、彼をして止むを得ず一賭けを為さしむ。すなわち利を與え、なお脅しを加え、双管齊下し、江東必ず動かん。
鄧芝、いかなる聡慧なる者ぞ、瞬きにして領会し、眼の奥に精光一つ閃き、「軍師安心せよ、屬下句句を皆な齎し申さん。孫権雄才大略、一聞すれば即ちその中の利害を知らん。」
「よい、そなた立ちどころに準備し、明朝の始めに發ちなん。」諸葛亮、手を揮る。
鄧芝、身を屈めて退き、使として赴くが事を準備せん。
ここに至り、営を住め、姦を清くし、呉と連ずるの三策、ことごとく敲き定まる。
帳内の諸將ただ眼前に豁然として開け、もとより混沌たる戰局、今や脈絡清晰に、方向明確なり、人として心に底あり、人として戰意昂り。
魏延、哈哈として大笑し、拳を抱きて言う、「よい! 丞相の指揮あり、軍師の謀りあり、江東の助けあり、わが等何ぞ曹魏を破たざるを憂えんや! わが、これより歸って騎兵を整え、ただ一聲の令を待ち、即ち北に渭水を渡り、直に長安を搗かん!」
「文長、稍安からざるを示意。」諸葛亮、笑いて、「三日休み整え、三日後に全軍演武、亮と軍師みずから三軍を検閲せん。」
「承命!」諸將揃いて聲を應ず。
引き續き半時辰の間、諸葛亮、なお諸將と細かに営中の防務、士卒の操練、傷病の撫恤、糧草の調配などの細かきを議し、事無きに至らず、一一に妥当に布き置き、わたくし、傍らにて時に一二句を補え、皆な要害を切り、禍を未だ生ぜざるに防ぐの言なり、なお諸將をして心服せしむ。
日の頭西に傾き、暮色將に臨まんとす、諸將漸く告退し、各自が営に歸って事を部署す。大幕の内、ついにただ諸葛亮、わたくし、二人のみ残る。
夕日帳簾の隙を透り、斜めに照り入り、地面に長き金紅の光影を投ず。秋風漸く涼しく、帳の角の流蘇を吹きて軽く搖がし、一派の寧静安穩なり、数日前の絶望壓抑と、あたかも隔てたる世の如し。
諸葛亮、ゆるゆると起ち上がり、帳口に歩み出で、外の暮色の中の軍営を望み、軽く嘆じて言う、「一日の間に、危を轉じて安となし、敗れを轉じて功となし、憂えを轉じて喜びとなす。弘正、もしそなた天より降りて來たらざれば、わが此の時、とうに五丈原の下の一捧の黃土となり、三軍の將士とうに潰れ散り、漢室の復興なお空談なりき。」
わたくし、前に進み、彼と肩を並べて立ち、語氣平和に、「丞相、言を重くせよ。わたくし、ただ時に遭い、後世の教訓と答えを齎せしのみ。真にこれすべてを支うるは、丞相が一生の忠義なり、三軍の將士が命を以て應ずるなり、漢室の人心未だ死せざるなり。わたくし、ただあの踏み違えし路を、引き戻したるのみ。」
「踏み違えし路……」諸葛亮、低く繰り返し、目光悠遠なり、「そなた、曾て言えり、後世の史書、わが命を五丈原に喪い、蜀漢の内乱を書き、魏延をもって謀反の罪にて誅せられ、楊儀自ら毀ち、姜維は孤木援なきに難じ、後主昏庸にして、宦官國を亂し、ついに漢室傾覆す……と、真なりや?」
これ彼、初めて、かくまで直截にその定まれる悲劇を追き問い申すなり。
わたくし、暫く黙し、ゆるゆると頷き、聲低く鄭重なり、「真なり。丞相病に斃れ、魏延謀反の罪を以て誅せられ、三族誅せらる;楊儀權を争いて敗れ、怨言を發し、後主に賜たまわりて死を賜る;蒋琬、費禕相次いで逝き、朝に人無く権宦を制衡す;姜維連年北伐し、國力竭き、なお排擠せられ、屯田して禍を避く;ついに鄧艾陰平を偷渡し、成都戰わずして降り、後主は蜀を思わずして樂なり。」
一句ごとに、皆な刀の如く、人の心に刻まる。
諸葛亮、目を閉ざし、長き睫微かに震え、久しくして開き、瞳の内一片の堅きこと、なお半分の悲戚も無し、「そなた在り、今の局在り、かの事ども、なお起こることなかるべし。魏延死せず、楊儀亂れず、権宦國を禍うこと能わず、姜維孤掌援なきに難じず、成都降らず。」
彼、わたくしを看、眼の色温和にして決絶なり、「そなた、千古の遺恨を補わんと言えり。今日、わたくしそなたと約す——此の生、曹魏を滅ぼさず、舊都に還らず、決して罷めず。」
「わたくしが丞相と、同じ心を、同じ志を。」わたくし、身を屈めて一揖し、聲鏗鏘たり。
この時、帳外より極めて軽き足音起こり、白毦兵の親衛一人片膝を地に着き、低く稟じて、「丞相、軍師、費長史急の事ありて面會を求め、後勤の核查に、幾分の……おかしきものを搜し出せりと。」
諸葛亮、わたくしと眼を交わし、共に相手の眼の底に一絲の凝重を看る。
「彼を入れよ。」
帳簾掀り、費禕速やかに歩み入れ、神色やや凝重なり、手に密封の木匣を捧げ、身を屈めて、「丞相、軍師、屬下命を奉じて糧草軍械を核查し、楊儀昔専用せし糧倉の隠し棚の中より、この物を搜し出せり。屬下敢えて私に拆けず、特に齎して上げ申す。」
諸葛亮、手を擧げ、「開け。」