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五丈原にて諸葛亮を救い、その義子となる  作者: ほしかわ さとる
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力(ちから)で楊儀(ようぎ)を論破(ろんぱ)す(下)

第28 力(ちから)で楊儀(ようぎ)を論破(ろんぱ)す(下)

この一翻(いっぽん)、恩(おん)と威(い)とを并(あわ)せ施(ほどこ)し、瞬(またた)きにして軍心(ぐんしん)を住(しず)めり。

もとより内姦に因(よ)り生(しょう)じ得(え)べき恐慌(きょうこう)猜忌(さいき)は、諸葛亮が眾(しゅう)に當(あ)たって宣(せん)じたる下(もと)、煙(えん)の如(ごと)く消(き)え失(う)せたり。代(か)わって生(しょう)じたるは、背叛(はいほん)者のに對(たい)する怒(いか)り、および丞相に對するより深(ふか)き信服(しんぷく)なり。

わたくし、側(そば)に立(た)ち、密(ひそ)かに頷(うなず)く。

諸葛亮がこの一(ひと)手(て)、至(いた)って高(こう)明(めい)なり。

公(こう)開(かい)、公(こう)正(せい)、透(とう)明(めい)、秘(ひ)密(みつ)の清算(せいさん)を為(な)さず、拡大化(かくだいか)を為さず、既(すで)に毒瘤(どくりゅう)を除(のぞ)き、また人(ひと)の心(こころ)を安(やす)んじたり。

諸將(しょしょう)の情(じょう)緒(ちょ)平(へい)らぎ、諸葛亮、再(ふたた)び口(くち)を開(ひら)き、語氣(ごき)重(おも)き威嚴(いげん)に返(かえ)り、「楊儀すでに除(のぞ)かれ、中軍(ちゅうぐん)長史(ちょうし)の職(しょく)、空(あ)くべからず。費禕(ひい)、公(こう)允(いん)にして持(じ)ち重(おも)く、心(こころ)思(し)縝密(ちんみつ)なり、今日(きょう)より、長史(ちょうし)を嗣(つ)ぎ、中軍(ちゅうぐん)の文書(ぶんしょ)、後勤(こうきん)糧草(りょうそう)の諸(しょ)事(じ)を掌(つかさど)らん。」

費禕、速(すみ)やかに列(れつ)を出(い)で、身(み)を屈(かが)めて禮(れい)を行(おこな)う、「屬下(ぞっか)、承命(しょうめい)す、必(かなら)ず丞相の託(たく)に負(ふ)えざらんや。」

「文長。」諸葛亮、魏延(ぎえん)を看(み)る。

「わし、在(い)り!」魏延、拳(こぶし)を抱(いだ)き胸(むね)を張(は)る。

「そなた此(この)戰(せん)功(こう)あり、前部先鋒(せんぽうぜんぽう)大將(たいしょう)に加(か)封(ふう)し、騎兵精鋭(きへいせいえい)を統(すべ)らせ、日後(じつご)戰場(せんじょう)の衝(しょう)殺(さつ)は、すべてそなた一人(ひとり)の決(けっ)したる所(ところ)に在(あ)らしむ。」諸葛亮、沈(ちん)として言(い)う、「されどわし一(いち)言(ごん)そなたに戒(いまし)む——再(ふたた)び功(こう)に恃(たの)んで自(みずか)ら傲(おご)ることなかれ、同僚(どうりょう)を欺凌(りょうげき)し、再び意氣(いき)に任(まか)せて事(こと)を為(な)し、輕(けい)挙(きょ)妄(もう)動(どう)すべからず。軍中(ぐんちゅう)の軍紀(ぐんき)、そなた自(みずか)ら帶頭(たいとう)して守(まも)るべし。」

魏延、心中(しんちゅう)一(ひと)つ溫(あたた)まり、諸葛亮、彼を罰(ばつ)せず、かえってより大(おお)きき兵權(へいけん)を與(あた)え、立(ただ)ちどころに片膝(かたひざ)を地(ち)に着(つ)き、高(たか)く聲(こえ)を發(はっ)して、「わし、承命す! 今(こん)より後(のち)、わし、ただ丞相の號令(ごうれい)に凭(よ)り、指(さ)す所(ところ)を打(う)ち、決(けっ)して二心(にしん)あることなかれ! もしこの誓(ちか)いを違(たが)えば、天(てん)誅(ちゅう)地(ち)滅(めつ)!」

「よい。」諸葛亮、頷(うなず)き、また姜維(きょうい)を看(み)る、「伯約(はくやく)、そなた、なお步兵(ほへい)弓弩手(きゅうどしゅ)を統(すべ)らせ、軍機(ぐんき)に參(さん)賛(さん)し、布局(ぶち)を謀(はか)らん、日後(じつご)の北伐(ほくばく)、そなたが肩(かた)に負(お)う荷(に)はなお重(おも)からん。」

「わし、承命す!」姜維、身(み)を屈(かが)めて應(おう)ず。

一(いち)番(ばん)の任命(にんめい)、整頓(せいとん)、安(あん)撫(ぶ)を經(へ)て、軍中(ぐんちゅう)上下(じょうげ)井然(せいぜん)として序(じょ)あり、人心(じんしん)一(いつ)に歸(き)す。

昔(むかし)、楊儀、魏延の不(ふ)和(わ)に因(よ)り生(しょう)じたる暗鬪(あんとう)、内姦(ないかん)潜伏(せんぷく)に因(よ)り生じたる隠患(いんかん)、丞相病危(びょうき)に因り生じたる動揺(どうよう)、この一(いち)日(にち)の内(うち)に、徹(てっ)底(てい)して煙(えん)の如く消(き)え失(う)せたり。

諸葛亮、帳(ちょう)下(か)の齊(せい)しく一(いつ)に心(こころ)を合(あ)わせ、士氣(しき)如虹(じょっこう)たる諸將(しょしょう)を看(み)、帳(ちょう)外(がい)の日(ひ)明(あ)かり朗(ほが)らかなる、軍容(ぐんよう)鼎盛(とうせい)なるを看(み)、心中(しんちゅう)百感(ひゃっかん)交(こも)ごもに発(おこ)り、静(しず)かに言(い)う、「諸君(しょくん)、昔(むかし)わし曾(かつ)て言(げん)えり、鞠(きく)躬(きゅう)盡(じん)瘁(すい)、死(し)して後(のち)已(や)む、と。今日(きょう)、わし再(ふたた)び一(いち)句(く)を添(そ)えん——興復(こうふく)漢室(かんしつ)、舊都(きゅうと)に還(かえ)る、この志(こころざし)改(あらた)めず、この心(こころ)死(し)せず。」

「司馬懿(しばい)、わしが五丈原(ごじょうげん)に命(めい)を喪(うしな)い、蜀軍(しょくぐん)戰(たたか)わずして自(みずか)ら潰(くず)れんと思(おも)いき。」

「今日(きょう)、わし、天下(てんか)の人(ひと)に告(つ)げん。」

「諸葛亮(しょかつりょう)、死(し)せず。」

「蜀漢(しょっかん)の大軍(たいぐん)、敗(やぶ)れず。」

「北伐(ほくばく)の大業(たいぎょう)、止(や)まず!」

聲(こえ)鏗鏘(こうしょう)として、帳内(ちょうない)に嗡嗡(おうおう)と響(ひび)き、一(いち)字(じ)ごとに諸將(しょしょう)の心(こころ)に落(お)ち、熊熊(ゆうゆう)たる烈火(れっか)を燃(もや)し起(おこ)せり。

「北伐(ほくばく)止(や)まず! 興復(こうふく)漢室(かんしつ)!」

「北伐止まず! 興復漢室!」

「北伐止まず! 興復漢室!」

齊(せい)しく聲(こえ)を高(たか)く呼(よ)び、聲(こえ)雲霄(うんしょう)を震(ふる)わし、帳外(ちょうがい)の秋風(しゅうふう)すらこの氣勢(きせい)に衝(つ)き散(ち)らさる。

わたくし、一側(いっそく)に立(た)ち、この一幕(いちまく)を望(のぞ)み、眼(まな)の縁(ふち)微(かす)かに熱(ねつ)を帯(お)ぶ。

わたくし、真(しん)に成(な)し遂(と)げたり。

わたくし、真にあの崩(くず)れんとせし蜀漢(しょっかん)の大軍(たいぐん)を住(しず)め、あの師(し)出(い)でて捷(けっ)せず身(み)先(さき)に死(し)するの千古(せんこ)の悲歌(ひか)を書(か)き改(あらた)めたり。

帳内(ちょうない)の高呼(こうこ)漸(よう)く息(や)み、諸葛亮、わたくしを看(み)、眼(まな)の色(いろ)温(おん)和(わ)にして鄭重(ていちょう)なり、ゆるゆると言(い)う、「今日(きょう)の大勝(たいしょう)、内姦(ないかん)を除(のぞ)き、大局(たいきょく)を住(しず)め、弘正(こうせい)功(こう)至(いた)って偉(えら)し。もし先生(せんせい)あらざれば、わしとうに薬(くすり)の下(もと)に命(めい)を喪(うしな)い、蜀軍(しょくぐん)とうに内乱(ないらん)に陷(おちい)り、ましてや魏軍(ぎぐん)を大破(たいは)し、旗鼓(きこ)を重整(ちょうせい)するなど夢(ゆめ)にもあらず。」

彼、忽然(こつぜん)として起(た)ち上(あ)がり、わたくしに向(むか)い、微(かす)かに一揖(いつゆう)す。

この一揖(いつゆう)、帳内(ちょうない)の諸將(しょしょう)ことごとく瞪(あき)れさせたり。

丞相、竟(けい)に若(じゃっ)き後生(こうせい)に對(たい)して礼(れい)を行(おこな)わんとは?

わたくし、速(すみ)やかに身(み)を避(よ)け、身(み)を屈(かが)めて急(きゅう)に言(い)う、「丞相、なかれ! わたくしを折(お)り殺(さ)すなり!」

「当(あ)たって得(え)たり。」諸葛亮、身(み)を直(ただ)ちにして、語氣(ごき)鄭重(ていちょう)に、「今日(きょう)より、弘正(こうせい)を軍中(ぐんちゅう)の軍師(ぐんし)と為(な)し、一切(いっさい)の軍機(ぐんき)要務(ようむ)に參賛(さんさん)せしめ、その地位(ちい)丞相(じょうしょう)と等(ひと)し。凡(おお)そ弘正(こうせい)の言(げん)なるものは、わが言(げん)と等(ひと)しく;凡そ弘正の令(れい)なるものは、わが令と等し。諸將(しょしょう)は、わが命(めい)に聽(き)くが如(ごと)く、軍師(ぐんし)に命(めい)ぜよ。」

轟(ごう)!

又(また)一道(いちどう)の驚雷(きょうらい)落(お)ちたり。

諸將(しょしょう)徹(てっ)底(てい)して震(しん)驚(きょう)、わたくしを望(のぞ)む眼(まな)の色(いろ)は、初(はじ)めの疑惑(ぎわく)、疏(そ)遠(えん)より、瞬(またた)きに敬畏(けいい)、尊崇(そんすう)に變(へん)ぜり——たといわが來歷(らいれき)明(あき)らかならず、口音(くおん)怪(あや)しけれど、さきほどの一(いち)樁(しょう)づつの乾坤(けんこん)を轉(てん)ぜし作(さ)為(い)、すでにすべての者がらの口(くち)を塞(ふさ)ぎたり。

軍師!

丞相等(しょうしょう)と等(ひと)し!

一(いち)言(げん)一(いち)語(ご)、皆(みな)な軍令(ぐんれい)と同(おな)じ!

これいかなる信任(しんにん)、いかなる器重(きちょう)ぞ!

魏延(ぎえん)、姜維(きょうい)、諸葛雲(しょかつうん)ら、相(あい)次(つ)いで前(まえ)に進(すす)み、わたくしに向(むか)い身(み)を屈(かが)めて禮(れい)を行(おこな)う、「軍師(ぐんし)に參(さん)ず!」

さきほど那些(なんし)ひそかに附和(ふわ)し、わたくしが證拠(しょうこ)を捏造(ねつぞう)せりと疑(うたが)いし將士(しょうし)は、この時面(おもて)を赤(あか)らめ、羞愧(しゅうき)難(なん)堪(かん)なり、また重(おも)く跪(ひざまづ)き、頭(こうべ)低(ひく)く埋(うず)む——彼らさきほど竟(けい)に楊儀(ようぎ)がかの奸賊(かんぞく)の鬼話(きわ)を信(しん)じ、危(あや)うく軍師(ぐんし)を冤(えん)わんとせり。「軍師に參ず!」の呼(よ)び聲(こえ)の中(うち)に、幾分(いくぶん)の羞慚(しゅうざん)を增(ま)し、なお幾分(いくぶん)の死(し)心(しん)塌(とう)地(ち)の信服(しんぷく)を增(ま)せり。

わたくし、深(ふか)く一息(いっそく)吸(す)い、心中(しんちゅう)の激(げき)蕩(とう)を押(お)さえ、諸將(しょしょう)に向(むか)い微(かす)かに拱手(きょうしゅ)し、聲(こえ)清朗(せいろう)に、「諸將(しょしょう)の軍、多(おお)くの禮(れい)を要(い)らず。わたくしが丞相(じょうしょう)と同心(どうしん)、諸君(しょくん)と同心、三軍(さんぐん)の將士(しょうし)と同心、漢室(かんしつ)天下(てんか)と同心。今日(きょう)の後(のち)、願(ねが)わくは諸君(しょくん)と共(とも)に、衝鋒陷陣(しょうほうかんじん)、北伐(ほくばく)中原(ちゅうげん)、興復(こうふく)漢室(かんしつ)、舊都(きゅうと)に還(かえ)らん!」

「軍師(ぐんし)に隨(したが)わん! 丞相(じょうしょう)に隨わん! 北伐(ほくばく)中原(ちゅうげん)! 興復(こうふく)漢室(かんしつ)!」

呼(よ)び聲(こえ)再(ふたた)び起(お)こり、雲霄(うんしょう)に響(ひび)けり。

帳外(ちょうがい)、秋風(しゅうふう)浩蕩(こうとう)、旌旗(せいき)獵獵(りょうりょう)。

遠(とお)方(かた)、魏軍(ぎぐん)の大営(たいえい)驚魂(きょうこん)未(いま)だ定(さだ)まらず、司馬懿(しばい)門(もん)を閉(と)ざして出(い)でず、長安(ちょうあん)震(しん)動(どう)し、朝野(ちょうや)安(あん)ぜず。

成都(せいと)の朝堂(ちょうどう)、いまだ五丈原(ごじょうげん)の驚天(きょうてん)の逆轉(ぎゃくてん)を知(し)らず、なお暗流(あんりゅう)の中立(たち)ちて前(まえ)方(ほう)の消息(しょうそく)を待(ま)つ。

而(し)して五丈原(ごじょうげん)の上(うえ)に——

臥龍(がりゅう)已(すで)に醒(さ)めたり。

軍師(ぐんし)初(はじ)めて立(た)つ。

三軍(さんぐん)齊(せい)しく心(こころ)を一(いつ)にす。

大勢(たいせい)已(すで)に轉(てん)ず。

諸葛亮(しょかつりょう)、わたくしの側(そば)に歩(あゆ)み寄(よ)り、両人(りょうにん)肩(かた)を並(なら)べて立(た)ち、共(とも)に帳外(ちょうがい)の遼(りょう)闊(かつ)なる天地(てんち)を望(のぞ)む。

「弘正(こうせい)。」

「丞相(じょうしょう)。」

「そなた、我(わ)が次(つぎ)の一(いち)步(ほ)を、いかになすべきと言(い)う?」

わたくし、目光(がんこう)北(きた)を指(さ)し、長安(ちょうあん)の在(あ)る方(ほう)向(こう)、眼(まな)の色(いろ)堅(けん)きこと確(たし)かに、一(いち)字(じ)一(いち)句(く)を、ゆるゆると言(い)う、

「第(だい)一(いち)步(ほ)、営(えい)を住(しず)めて休(やす)み整(ととの)え、戰果(せんか)を固(かた)め、すべての余黨(よとう)を清(きよ)くし、丞相の身(み)を徹底(てってい)して康復(こうふく)せしめん。」

「第(だい)二(に)步(ほ)、東呉(とうご)と連絡(れんらく)し、共(とも)に曹魏(そうぎ)を圖(はか)り、孫権(そんけん)に淮南(わいなん)に兵(へい)を出(い)でせしめ、魏軍(ぎぐん)の兵(へい)力(りょく)を牽制(けんせい)せしめん。」

「第(だい)三(さん)步(ほ)、檄(げき)を成都(せいと)に傳(つた)え、後方(こうほう)を安(やす)んじ、黄皓(こうこう)を遏制(よくせい)し、朝堂(ちょうどう)を安(あん)撫(ぶ)せしめん。」

「第(だい)四(し)步(ほ)、時(とき)至(いた)らば、兵(へい)を祁山(きざん)より出(い)でせしめ、直(ちょく)に長安(ちょうあん)を指(さ)し、正(せい)しく開(かい)かん、真(しん)の北伐(ほくばく)を!」

一(いち)言(げん)ごとに、皆(みな)な方(ほう)向(こう)を指(さ)し示(しめ)し、皆(みな)な歴史(れきし)の要害(ようがい)に脚(あし)を踏(ふ)みしむ。

諸葛亮、これを聞(き)き眼(まな)の奥(おく)に精光(せいこう)激(げき)しく漲(みなぎ)り、手(て)に羽扇(うせん)軽(かる)く揚(あ)げ、哈哈(かか)として大(だい)笑(しょう)し、聲(こえ)四野(しや)を震(ふる)わす、

「よい! よい步(ほ)步(ほ)為(い)営(えい)、よい直(ちょく)に長安(ちょうあん)を指(さ)すとは!」

「そなた在(あ)れば、わが何(なん)ぞ北伐(ほくばく)勝(か)たざるを憂(うれ)えんや!」

「そなた在(あ)れば、漢室(かんしつ)何(なん)ぞ復興(ふっこう)せざるを憂えんや!」

笑(わら)い豪邁(ごうまい)にして、往日(おうじつ)の沈欝(ちんうつ)を一(いち)掃(そう)し、盡(ことごと)く臥龍(がりゅう)當年(とうねん)の風采(ふうさい)を顯(あらわ)す。

わたくしも亦(また)笑(わら)い、眼(まな)に滿(み)ちる希望(きぼう)と決絶(けつぜつ)とを帯(お)ぶ。

五丈原(ごじょうげん)の物語(ものがたり)は、もはや落幕(らくまく)の悲劇(ひげき)にあらず。

而(し)して一(いち)段(だん)の全(まった)く新(あたら)しき傳奇(でんき)の、開篇(かいへん)なり。

司馬懿(しばい)、そなた待(ま)て。

この一(いち)局(きょく)の碁(ご)、わが等(ら)が今(いま)だただ今(いま)ぞ始(はじ)めんとする。

秋風(しゅうふう)渭水(いすい)の潮氣(ちょうき)を卷(ま)き、五丈原(ごじょうげん)連綿(れんめん)百里(ひゃくり)の蜀軍(しょくぐん)連営(れんえい)を漫(まん)り過(す)ぐ。

さきほど帳中(ちょうちゅう)の聲(こえ)雲霄(うんしょう)を震(ふる)わしたる「北伐中原、興復漢室」いまだ散(ち)らず、余音(よおん)なお山(やま)川(かわ)の間(ま)に迴(かい)旋(せん)し、甲葉(こうよう)の鏗鏘(こうしょう)、旌旗(せいき)の獵獵(りょうりょう)と織(お)りなして一(いつ)股(こ)の沈雄(ちんゆう)厚(こう)重(じゅう)なる軍魂(ぐんこん)となり、この曾(かつ)て危(あや)うく絶唱(ぜっしょう)とならんとせし土地(とち)に刺(さ)さる。

中軍(ちゅうぐん)の大幕(だいまく)は、もはや數日(すうじつ)前(まえ)のあの愁雲慘霧(しゅううんざんむ)、病危(びょうき)垂絶(すいぜつ)の壓抑(あっしょく)の地にあらず。銅燈(どうとう)高(たか)く掛(か)かり、光(ひかり)四壁(しへき)を照(て)らす;案几(あんき)整(ただ)ち居(い)り、文書(ぶんしょ)序(じょ)あり;帳外(ちょうがい)の白毦兵(はくじへい)嶽(がく)の如(ごと)く肅立(しゅくりつ)し、風(かぜ)の帳簾(ちょうれん)を吹(ふ)く動(どう)きすら、一(いつ)股(こ)の山河(さんが)を重整(ちょうせい)する篤(とく)とを透(とお)らす。


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