山谷(さんこく)破敵(はてき)(下)
第26 山谷破敵(下)
一字一句、皆な裏切りなり。
諸葛亮の指先がかすかに震え、ついにそっと目を閉じた。喉の奥に呑み込んだ一聲の長嘆が、やがて滿帳の悲涼となって散っていった。「わしが彼を遇いやったのは薄きものではなかった……軍に随うこと多年、心腹を托し、糧草軍務をことごとくその手に委ねた。文長と屑が合わぬとはいえ、わしは一再び彼を保全したり。何ぞ……何ぞここまで至らしめたや。」
「丞相、乱世の人心、もとより測りがたきものにござる。」わたくしは静かに口を開き、声の調子は落ち着いていた。「楊儀の圖る所、決して漢室の復興にあらず、江山社稷にあらず、ただ己が権位のみ。丞相が在ませば、なお攀じ登る隙あり;丞相、もし亡びなば、彼は別の靠り所を求めん。かかる者、才有れど徳無く、用うべくして信ぜざるべからず、信ずべくして托すべからず。今日除かざれば、明日必ず大禍とならん。」
わたくしは一息ついて、さらに声を沈めた。「ましてや、さきほど山谷の大勝、司馬懿大敗して走げ、楊儀の内應の計は空に帰せり。さればこの時、かの者を捕らえたれば、当に湯の沸えるうちに鉄を打つが如く、その営幕、文書、往来を嚴しく査べ、余黨の脱走を許すなかれ、また根底の暗樁を日後の禍根となさるなかれ。」
この言葉は冷水一盆の如く、諸葛亮がすべての旧念を押し退け、瞳の奥に再び決断の光を取り戻させた。
諸葛亮はゆるゆると帳口まで歩み出で、外の陽光燦爛、士氣如虹たる軍営を望み、静かに言った。「わしはもとより思えりしに、此の生の最大の敵は、曹魏に、孫権に、この天下乱世にありと思いき。今日に至って初めて悟れり——人心の險、兵戈に勝ること遠し。」
「外賊は防ぎがたく、内姦は防ぎがたし。」わたくしは彼の側に寄り、共に営中を望みつつ言った。「丞相、一生を信義をもって人に待えりしが、この世に、必ずしも丞相の如く漢室を心に抱く者あらずと思わざりき。ある者は、富貴を共にせしむべく、患難を共にせざるべからず;その才を用うべく、その心を托すべからず。」
「そなた、もっともなり。」諸葛亮、微かに頷く。「この一役を経て、わしはやっと真に見え申したり。後の治軍、必ず内外兼修し、もはや道義の規矩をもってのみ人心を束ねることはせぬ。」
諸葛亮がかかる念を生じ得たるは、一場の戦場大勝よりもなお重きなり。かつて彼は事に親ら當り、信に過ぎたれば、内姦に乘ずる隙を與え、また己を透支して死に至らしめり。今や覚れば、これこそ蜀漢真に固まるの始なり。
「さて、丞相。」わたくしはふと一事を思い出し、語気を改めて言った。「楊儀、すでに魏に通ず、その手に一通の密書、一條の渠道のみあらず。彼が朝の中、成都に、各営の中に、また別の眼線同黨あるや、未だ知るべからず。すでに捕らえたれば、必ず細かに審問し、根こそぎ拔き取り、後の禍を遺すなかれ。」
これはわたくしが埋めたる又一の長き糸なり。
楊儀、長史の位に居り、多年文書後勤を掌り、人脉軍中と朝堂に遍し。もし彼一人を殺すのみならば、余黨潜伏して、日後なお禍とならん。必ずこの清姦を藉りて、蜀漢の内なるすべての暗瘤を一つ一つ拔き去り、これをもって後方を安んじ、前線を憂えしめざらしめざるべし。
諸葛亮、眼の色一つ厲しく、「そなた安心せよ、わしに分寸あり。この度の清営、速やかなるを求めず、ただ淨きを求む。楊儀と私に相往来し、形跡怪しき者、ことごとく核查す;問題ある者は、一律に捕らえ;無辜の者は、釈明して釋放し、決して一人をも冤わすることなかれ。」
「丞相、公明なり。」わたくしは身を屈めて一揖す。
この一揖、落ちて帳中一時静まる。魏延は腕を組み帳柱の傍らに立ち、さきほど楊儀の通敵を聞き、とうに抑えかねており、この時冷かに笑って、「かかる蠹虫、初めより信ずべからざるものと申せしに。」姜維はしかし沈吟して、「長史、多年文書後勤を掌り、軍需調度、驛傳密書ことごとく經手す。もし真に心に通敵を企てば、暗樁は一二處ならざるや。」と言った。この言葉、偽らず——楊儀の患い、一人の叛にあらず、彼が年を經て織りしその一張の網にあり。わたくしが諸葛亮を望めば、彼の眼底の悲色すでに褪せ、換わって淵の如く靜かなる冷光となれり——すでに見え申せば、なお半分の猶豫も無し。これこそわたくしの望みなる——痛み、嘆き、そして柔き所を、鎧に鍊え上げる。
両人語る最中、帳外より忽然として喧嘩の聲起こり、やがて白毦兵に強いて押し退けられ、遠く高く呼び叫ぶ聲、怒って服せざるを罵るのが幽かに聞こゆ。
考えなくとも知る——楊儀の余黨、甘んぜず、騷ぎたてて咆哮せり。
程なきに、足音再び帳前に歸す。
「連れ入れ。」
帳簾掀り、白毦兵四人が五花大縛の楊儀を押して入る。
諸葛雲は一身利発なる暗甲を著い、眉目沈靜、微かに頷き稟じて言った、「丞相、辱からずして命を果たし申せり。楊儀が営幕の隠し棚の中より、なお魏軍と往来せし密書三通、金銀財物若干を搜し出せり、皆な魏軍が密かに賞賜せしもの;その身に帯ぶる銅符、すでに先に當眾搜し出せり。人證物證、一應具備せり。」




