↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五丈原にて諸葛亮を救い、その義子となる  作者: ほしかわ さとる
18/45

命を換えて夜を守る(下)


これは私が意して埋めた、もう一つの肝要なる伏筆なり。歴史のうえにおいて、諸葛亮はまさに軍中にて心臓が急停し、突然病に斃れた。後事を細かに整う暇も無いまま、これにより楊儀、魏延の慌ただしかる争権を招き、内乱を爆発させたのだ。この世において、私は必ず前もって指摘し、前もって予防せねばならず、どうしても歴史の再演を許すわけにはいかぬ。

諸葛亮、わずかに呆け、次いで頷いた。

「確かにこの症はある、ただ近頃ますます重くなっておる。医者らはただ身の虚耗と申すのみで、ついに何なるものか申したことは無かった」

「それは彼らの医術が浅く、この症の凶を知らぬゆえです」と私は言った。「私、明日方案のなかに、律を安定させ、身を養う幾つかの薬を加え、さらに丞相に扶桑のラジオ体操を一つ教え、朝夕に練習していただけば、心臓の機能を安固に保ち、突然の崩絶の虞は決して無くなりましょう」

諸葛亮の眼に精光が閃めいた。

「後世の法、本当にこれほど神妙なものか」

「千真万確です」と私は重く言った。「この法、兵戈にも権謀にも関わらず、ただ養生保命の術にて、丞相の長寿安康を保ち、北伐の大業を完遂することを続けさせます」

ちょうどこの時、幕外の遠くから、ふと極めて微弱な号角の音が聞こえた。蜀軍の号角ではなく、魏軍の大営の方より聞こえしもので、低く長く、夜空を切り裂き、一つ殺気を帯びていた。

私と諸葛亮、同時に顔色を変え、眼を交わした。

「司馬懿がこれほど早く動いたとは」と私は低く言った。

諸葛亮、幕の辺へ歩み寄り、簾を一すじ掀じ開けて、魏軍の大営の方を望み、瞳に冷たき光を閃めかせて言った。

「主力の進攻ではない、試しじゃ。かれはきっと幾分の風声を聞き、小さな斥候や先鋒の部隊を遣わして、わが軍の虚実を探りに来たのであろう」

「されば、わらわは……」

「将計就計じゃ」と諸葛亮は身を翻し、声は沈かだった。「魏延に令を伝えよ。精鋭の騎兵を率いて、こっそり営を出で、東側の山谷に伏せ。魏軍もし来れば、勝つことを許さず、敗れるのみを許し、わざと弱きを示し、わが軍の防備が緩み、軍心が乱れていると彼らに思わせよ」

私、眼を耀かせた。

「丞相、明かしき御手柄! わざと弱きを示し、司馬懿に丞相が重篤に臥し起きられず、蜀軍は乱れんとするをますます固く信じさせ、かれみずから大軍を率いて奇襲に来るよう誘き寄せるのでござる!」

「その通りじゃ」

諸葛亮、羽扇を軽く揺らし、口元に勝算を握ったる如き笑みを描いた。

「かれはわが虚実を探らんとす、わしはかれに一幕の好い芝居を見せむ。かれはわしの病死を待たんとす、わしはかれに先んじて一勝の大夢を描かせむ」

弱きを示して敵を誘き、門を閉めて犬を打つ。

「姜維に令を伝えよ。軍営を整え、表は緩かに、内は厳しく防ぎ、真の混乱の一つも出ぬようせよ」と諸葛亮は令を下し続けた。「楊儀に令を伝えよ。後勤の糧草を厳しく看視せしめ、半ばの過誤も出ぬようせよ。諸将に令を伝えよ。今夜より全軍を戦備の態に入れ、密かに集結し、一声の令あるを待つのみ、即かに全線より出撃せむ」

一つ一つの軍令が、明らかに下され、沈かで力強かった。その一瞬、私はまさにあの指揮若して動ぜず、千里の外に勝つ蜀漢の丞相が、再び帰ってきたのを看たような気がした。もはや命が一線に懸ることも無く、もはや遠からず逝くことも無く、むしろ戦意昂ぶり、気勢は虹の如くであった。

「丞相……」

私、諸葛亮を見やり、声がわずかに詰まった。私は遂に成し遂げたのだ。私は本当に、諸葛亮の命の火を再び点し、この千古の名相の壮心を再び覚ましたのだ。

諸葛亮、私を見やり、ほほほ笑み、温かくして固かった。

「弘正、そなたは、わしに命を続け、蜀漢に命を改め、この千古の遺憾を補うと言ったな」

「今夜こそ、その第一歩にござる」

私、重く頷き、眼に涙光を耀かせながら、声は鏗鏘として言った。

「は! 今夜こそ、その第一歩にござる!」

銅灯の燈火が突然明るくなり、我らの堅き面持を照し出した。幕外の秋風は相変わらず哮り、魏軍の号角が遠く聞こえ、殺機は四方に満ち、暗流は汹々として湧く。営中に潜む頂点の細作はなお窺い、いつでも致命の一撃を与え得る。遠く司馬懿は虎視眈々として勝を握ったと思い込んでいる。されど彼らは知るまい。この中軍の大幕のなかで、千年の後より来たる異世の来客、千古に稀なる賢相と、すでに手を携えて天羅地網を布いていることを。

歴史の車輪は、すでに本来の軌道を外れた。五丈原の秋風は、もはやあの将星を吹き落とすことはあるまい。出師の表未だ捷たずして身先に死にしという千古の遺憾は、ここより徹底的に書き改められむ。

私は幕中へ歩み、諸葛亮に向き直り、深く一揖した。

「丞相、今夜私がこの幕中に控え、丞相のために薬を煎じ、丞相のために法を護ります。丞相は安らかに静養なされ、精を養い気を蓄えられよ。明日はなお更に重要なる事が丞相を待っております」

諸葛亮、軽く頷き、眼に信に満ちて言った。

「ようよ。わしはそなたを信じる」

私、身を起こし、幕外の漆黒の夜を望みやり、眼は刃の如く鋭かった。王医者は捕らえられ、細作は除かれむ、魏軍は敗れむ、丞相は癒えむ。すべては最良き方へ向かって動きつつある。されど、私の心は明らかなり、これはただの始めに過ぎぬと。

蜀中の朝堂には暗流湧き、黄皓の乱政の禍根は未だ除かれず。東呉は揺れ動き、盟約は安からず。曹魏は勢大なり、天下は争い難し。なおその上、蜀軍の高層に潜み、未だ露わにならぬ頂点の細作が、頭上に懸れる利剣の如く、いつでも落ちてき得る。一歩踏み誤らば、万劫も返らぬ。

されど、私はもはや惧れぬ。私は成都近郊の廃墟より持ち来りしその薬箱を携え、千年の記憶を手に握り、側には諸葛亮、諸葛雲、魏延、姜維ら一衆の忠臣猛将あり。私には天に逆らいて命を改めんとする決意があり、千古の遺憾を補わんとする執念がある。五丈原の夜がいかにおおきく、いかには寒けれど、ついに過ぎ去らむ、黎明の曙光はすでに遠き天際にほのかに明かりを放ちつつあり。

私は薬壺を手に取り、薪に火を添え、弱き火でゆるゆると熬った。薬の香りが次第に立ち籠もり、先のような刺激性のあるものではなく、温かく醇かな、肺を潤すが如きものとなった。

これは命を続くる薬、望みの薬、蜀漢が再び興る始めの薬なり。銅灯ぱちぱち、薬香嫋々、軍令は声無く、殺機は潜かに蔵さる。諸葛亮、目を閉ざして静養し、神色安らかなり。私は薬炉の前に控え、眼は固かった。幕外の秋風はなお哮るも、もはや幕中のその燎原せんとする一点の星火を吹き散らすことはできぬ。

夜は更け、秋露は霜となり、一層冷たき水光が五丈原の連なる営の屋根を覆った。遠く魏軍の大営の燈火が黒夜のなか明いたり滅したり、荒原に蟄伏せる獣の瞳の如く、黙して蜀軍の営地を睨つけ、獲物が一息緩めば、飛びかかって噛み尽くさんと待っている。

中軍の大幕のなか、ほのかなる消毒薬と薬の匂いが立ち、幕に残る旧き匂いを圧えた。私は仮に設けし医療台の傍に控え――私は一領の青衫を着、頭に方巾を結び、眉目は疏朗、風流にして倜儻、薬瓶と針管の間に自ら沈かなる従容の気を備えていた――今、薬液を注器に吸い上げ、さらに身を屈めて滴下速度を照合し、静脈路を程よく調えていた。私の動きは専心細心、各の薬の量を寸分の違いも無く取り、手に受くるは一管ずつ薬液ではなく、蜀漢この一つの江山の命脈であるかのようであった。

諸葛亮はすでに榻の上へ移り、目を閉ざし、さきほど私の教えし扶桑のラジオ体操に従い、肢体を伸ばし、呼吸を調えた。一呼一吸のあいだ、長く平らかに、常に窒ぱくせし胸が次第に開け、身に纏わりつくその疲労も、なんとか本当に幾分薄らいだ。彼はもとより心智堅固、悟性極めて高く、ほどなく訣竅を掴み、心口のあいだのその微かなる不安も、ひそかに安らかとなりおきぬ。

私はそれを眼に収め、ひそかに安堵の息をついた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。