命を換えて夜を守る(上)
「やむをえぬとな?」
私は一歩前へ出て、声は冷たかった。
「やむをえぬとて、丞相の製剤のなかに毒を下すことができようか。やむをえぬとて、一十七名の細作と結託し、軍機を窺い、情報を伝え、数万の蜀軍将兵を死地に置くことができようか。やむをえぬとて、蜀漢の江山を葬り、丞相一生の心血を裏切ることができようか」
一連の詰問、言ごとに刃の如く、心を抉り骨を刺した。王医者、口を閉ざし、顔色は紙の如く蒼白、ただ絶えず頭を磕つき、額より血を流して地を赤く染めた。
私は彼を俯視し、眼に半ばの同情も無かった。乱世のなか、最も欠けているものは、やむをえぬという理由ではない。されど、やむをえぬとは、決して信義を裏切り、恩主を売り、忠良を害する言い訳にはならぬ。この者、丞相の側に久しく潜伏し、日々毒薬をもってその性命を蚕食してきた、罪極めて重く、死してなお有余あるなり。
「密書のうえには、いかなることが書かれていた」と私は低く問うた。「そなたはいかに司馬懿と連絡せし。営中にまだ漏らし損ねたる魚はおらぬか。曹魏の大営のなかには、まだ誰が暗に応じておる」
王医者、身を震わせ、顔を上げることも敢えず。
「言わぬか」と諸葛亮は軽く首を振り、口調は淡かった。「わしはとうにそなたに口を開かせることはせぬ。そなたが司馬懿と連絡せし密書、暗号、銅符、ことごとく収められたり。そなたの言う一語一語、真か偽か、調べれば即かに知れる」
彼は一息ついて、声は九幽の寒淵より来るが如く冷たかった。
「最後にもう一度そなたに問う――そなたら一十七人のほかに、営中にさらに高き階層の眼線はおらぬか。中軍の決策に直接触れ得る者はおらぬか」
この一言、出たる時、私の心に突然の激震あり。
さらに高き階層の眼線。中軍の決策に直接触れ得る者。
私は瞬きに、昨夜幕外のその盗聴せし者を思い出した。あの者が音もなく丞相の大幕に近づき得たのは、決して並の細作ではなく、少なくとも校尉以上の将領、いやはては諸葛亮の側に親しき者でさえあり得た。
王医者、身を激しく震わせ、頭を上げて諸葛亮を見やり、眼に極まりなき恐怖を満たし、唇をわななかせながら、一文字も語ることができなかった。
この反応、すでにすべてを物語っていた。
営中に、まだ大魚がおる。
王医者この一十七人、ただ表の駒に過ぎぬ。真に幕の後ろに潜み、核心の機密に触れ得る頂点の細作は、まだ捜し出されておらぬ。私の心は瞬きに氷の如く冷たくなった。なんと深き配置、なんと酷しき算計ぞ。司馬懿が蜀軍の大営のなかに二層の眼線を布いたとは。外層は王医者らの日々の消息を伝う駒、内層は高層に隠され、肝心の刻に一撃必殺たる伏兵なり。もし今夜諸葛亮のこの一問なく、もし王医者この本能の反応なくば、彼らは死するまで、真の殺機がなお更に深く潜めるを知ることなどありえぬであろう。
これは命を奪い得る伏筆、蜀漢の心臓に刺さったる毒棘なり。
「どうやら、本当にいるようだな」
諸葛亮、眼を閉ざし、再び開けし時、その瞳には徹底した寒意のみが残っていた。
「わし、生きてこのかた人を見て、かつてこれほど失算したことは無かった。営中の将領に、なお曹魏と密かに通ずる者がおるとは」
「丞相……」
王医者、声を震わせ。「老朽……老朽、語ることができぬ。語らば、老朽が一族は必ず死に絶え、老朽みずからも死して葬る場所なからむ……」
「そなたが語らぬなら、この刻に死して葬る場所なからむ」と私は声冷たく言った。「そなた、まだ選ぶ余地があろうと思うか」
諸葛亮はゆっくりと手を挙げ、私がさらに問い詰めるのを制し、声は恐るべきほど平静であった。
「無理に訊き詰めるには及ばぬ。かれが敢えて語らぬということは、その者の勢力が極めて大きく、すでにかれを完全に握っているということだ。たとえ訊き出しても、本当のことを言うとは限らぬ、かえって草を打って蛇を驚かすことになる」
「されば……この大魚をこのまま見逃すのか」と私は眉を寄せた。
「見逃す?」
諸葛亮、口元に冷たき弧を描いた。
「わし、生きてこのかた、かつて敵を放したことは無い。ただ、網を収めるには、一層ずつせねばならぬ。外層の駒はすでに除かれた、内層の伏兵は、おのずと自ら飛び出てこよう」
丞相は、わざと長い糸を垂れ、自ら進んで露わに出させようというのか。
「その通り」と諸葛亮は頷いた。「われら今夜王医者らを尽く殲しながら、わざと何事も無かったかの如く装い、相変わらず元の計画どおりに丞相重篤、事を理せぬという偽りの消息を流す。あの者、王医者が失手して捕らえられしを見て、必ず慌てふためき、補わんとして、みずから進んで情報を伝えむ。その時は、わらわが捜さずとも、自らわが前に届けてくれるであろう」
声も無く、蛇を穴から誘き出し、身を餌として、敵の亡びを静かに待つ。これこそ頂点の権謀の真の手段なり。
「この者、当分生かしておけ」と諸葛亮は王医者を見やり、口調は淡かった。「密帳に拘禁し、厳しく看視せよ、何人たりとも接することを許すな、自害も許さぬ。生かしておけば、なお用がある」
「は」と親衛二人が応じ、身を萎え果てたる王医者を曳きて幕外へ退いた。
前営の糧屯の側、幾つかの焚き火が一面に連なっていた。後にこれらの言葉が私の耳に届いたとき、噂は営の寒風よりも刺すようであった。
「後営の者の話によると、丞相は今日は榻から下りることもならぬほどで、恐らくは……この数日は持つまいとのう」
一人の糧を運ぶ士卒が声を潜め、顔まで白くなって言った。
「此間まで、あの孔先生が妙手回春できると噂していたが、わしが見るに、春に回すどころか、かえって丞相の命を回し損ねたようじゃ」
「その通りじゃ」と傍らの老卒が嘆息した。「本当になんとも無ければ、どうして中軍が二夜つづき燈火を明らかにし、将佐が行き来している。明らかにわたしらを隠しているのじゃ。丞相が逝けば、楊長史と魏将軍はまた不仲じゃ、この戦はどうやってやる。退け、早く退け、命をこの荒原に捨てるな」
「すべてあのよそ者の医者のせいじゃ、むやみにやりおる」と有人が忿りを含んで言った。「前もって知っておれば、まだ王医者に続けさせておけばよかったものを」
数人の怨みは天にも届かんばかり、その火をことごとく私と丞相に向けた。彼らには見えぬのだ、中軍の密帳のなかで、王医者とその一十七名の細作が、一人のこらず積み重ねられていることを。彼らが怨むその「隠し」こそ、まさに諸葛亮がわざと流した餌であったことを。
幕内は再び静寂に帰した。
私はあのとっくに冷えたる製剤の碗の前へ歩み寄り、碗のなかの漆黒とろりとした薬汁を見つめ、眼は冷たかった。私は薬碗を手に取り、幕外の片隅へ歩み、ゆるゆると薬汁を泥土のなかへ注いだ。黒き薬汁が地に滲み込むや、瞬きに周りの雑草さえ微かに枯れ果てた。この薬の毒の烈しさよ。もし私が早く看破せざりしなら、十日と経ぬうちに、諸葛亮は必ず血を咳き、息絶えたろう。
「危ないところじゃった」と私は低く独り言を言った。
幕内へ戻ると、諸葛亮はすでに私の改めて書き記した方案を手に取り、指先で紙面を撫でており、その瞳に一つ温もりを帯びていた。
「そなたのこの方案、薬性は穏やか、心脈を固く護り、さきほどの碗の毒薬とは、雲泥の差じゃの」
「丞相、今夜より、この薬を服用なされよ」と私は言った。「三日のうちに、必ず血を咳くのを止められむ。七日のうちに、精神と気力はその大半を回復しむ。一月のうちに、再び起き上がって事を理し、三軍を指揮することもできむ」
「そなたのその言葉があれば、わしも安心じゃ」と諸葛亮はほほほ笑み、疲労は幾分消えた。
「そういえば、丞相」と私はふと一事を思い出し、神色を改めて言った。「私が昨日丞相の脈を診しとき、丞相が身の虚弱、乏力のほかに、なお一症あり、極めて凶なるを発見いたしました」
諸葛亮、眉峯をわずかに挙げた。
「おお? そなた、言え」
「丞相、年じゅう食少なめにして事に煩わされ、日夜操労、心脈はとうに損ぜられ、しばしば心悸、胸の圧迫、夜半に驚き覚めることがありはせぬか」と私は声を潜めた。「これは後世において、心脈の虚虧、律の不穏と申す。早く治せぬなら、いつでも突然に崩絶するやもしれぬ」




