夜審細作(下)
「丞相、『制衡』の要は『疏』にあり、『堵』にはありませぬ」
私はゆっくりと前へ出て、声を改めて言った。
「魏延が服さぬもの、それは蜀漢でも丞相でもございませぬ。ただ楊儀のような文吏が己の上に立つことだけを憎んでおるのです。彼は戦場を駆け、死にものぐるいで漢中を十年守ってきた。それを一介の書生に邪魔されれば、いかなる猛将とて胸に治まり難きものがありましょう」
「されば、そなたの見るところ、いかになすべきか」
諸葛亮が目を上げ、その瞳は深かった。
「その職を明らかにし、その権を定め、その心を安んずるにあり」と私は一語一語を区切って言った。「明日、丞相は魏延を本陣に召し入れ、自ら口をもって告げられよ。北伐の軍において兵権は二つに分かち、姜維は謀略を主にし、魏延は先鋒の突撃を主にせん。楊儀は後勤の文書のみを掌り、決して戦場の指揮に干渉してはならぬ、と」
「さらに明らかに告げよ。丞相に万一のことがあらば、漢中の防線はことごとく魏文長ただ一人に委ねん、と」
私の声は低く沈んだ。
「魏延は功名を最も重んじ、威名を最も惜しみ、なおさら丞相の知遇の恩を重んじます。実権を、地位を、約束を与えれば、彼が乱れを起こすことなどありえませぬ」
諸葛亮は指先で榻の縁を軽く叩き、しばし思い沈んでから、ゆっくりと頷いた。
「そなたの言うこと、まさに急所を射ておる。わしは生きてこのかた、法を重んじすぎ、完を求めすぎ、いつも規矩をもって人の心を縛ろうとしてきた。だが猛将の心は功名をもって撫め、信をもって服すべきであったことを忘れておった。文長という男は、強いものには弱く、柔らかいものには強い。そなたのこの策、わしがかつて一味に抑えつけたころより、はるかに勝っておる」
諸葛亮が人を用いることを知らぬわけではない。ただ生きてこのかた、事ごとに自ら行い、日々心を砕いて、すでに心力を尽くし、各の配下の心を細かに推量る余裕を失っていただけのことだ。されど、私は後世の来りし者、結末の一端に立ちて、悲劇の根を一目で看破し、おのずと的を射、症に合わせて薬を与えることができる。
「楊儀については――」
私の目つきがわずかに冷たくなった。
「この男、置いておけば必ず禍根を生じます。されど、いまは軍中用人の際、軽々しく斬ることはならぬ。人の心を揺るがす恐れがありましょう。彼の兵権を剥ぎ取り、職権を限り、さらに密かに人を遣わして監視せよ。ひとたび朝政を妄りに議し、離間を挑まば、直ちに捕らえ、決して容赦はせぬ」
諸葛亮はしばし黙して、ひとつ軽い嘆息をもらした。
「はて、乱世のなか、社稷を重んずるに、個人の私情など取るに足らぬ。そなたの言う通りにせよ。明朝一番に、わしが二人を召して、前もって規矩を定め、内乱の兆しを萌芽のうちに扼せむ」
二人が相談している最中、幕外からふと、落葉が地に墜ちるがごとき、極めて軽い足音がした。されど、それは長き修練による沈みを帯びていた。私は瞬きのうちに警戒し、幕門へ目を向け、指先をわずかに緊めた。
次の瞬間、幕外から諸葛雲の低く抑えられた声が響いた。
「丞相、部下、辱なくも命を果たしました」
諸葛亮は神色を正して言った。
「入れ」
幕がそっと掀じ開けられ、諸葛雲がしずやかに入ってきた。一領の玄色の軟甲に細かな夜露を帯び、眉目は静か、眼光は鋭い。彼は軽く頷き、声は清く澄んでいた。
「啓上いたす、丞相。王医者およびその同党、総じて一十七人、ことごとく捕獲いたしました。漏らしたる者は一人もございませぬ」
竜の如き巨石、ついに地に落ちたり。
一十七人。
司馬懿が、なんと蜀軍北伐の大営のなかへ、丸ごと一十七名の細作を潜ませ、医帳、糧草、斥候、親衛、輜重の各要害の位にまで満たしていたとは。もし今夜一網に打ち尽くさねば、その結末は考えるにも堪えぬものがあったろう。
「怪我人は出たか」と諸葛亮が低く問うた。
「三人、邑に拠らんとして抵抗し、伝え文を送らんと試みし者を、その場で討ち取りましたが、余る者は皆生擒にいたし、一兵一卒をも驚かしませんでした。営中の他の将兵、知るもの一人もございませぬ」
諸葛雲の口調は平らかだったが、疑うべからざる自信を帯びていた。白毦兵、やはり名に偽りなし。
「よし」と諸葛亮の眼に冷たき光が閃めいた。「囚はいかなる処に拘禁せられた」
「すでに密かに中軍の密帳に拘禁し、部下みずから百人を率いて看守せしめ、内と外を絶ち、蠅の一匹も入らぬようにしております」と諸葛雲は答う。
「密書、伝書鳩、連絡の符牒、これら証拠となるものは、ことごとく捜索し収めたか」と私は直ちに追て問うた。
「先生に申し上げます、すべて収めました」と諸葛雲は私へ目を向け、その眼に幾分の敬服が加わった。あの警戒の氷層が、この時微き隙を裂いたのだ。彼は喉の奥を動かし、問わんとしていた疑いを呑み込んだかのようだった。顎の線が半ば緩み、それは暗刃が真の達人に対してのみ見せる、本能に近き一礼であった。彼はわが素性を知らねど、丞相が私を極めて倚重しておることを看てとり、なおさら今夜のこの完璧な網の収めが皆私の謀りごとによるものと悟ったのだ。「王医者が魏軍と連絡せし伝書鳩三羽、密書十二通、暗号の一冊、そして……『司馬』の密記を刻んだ銅符の一つがございます」
「司馬の銅符!」
私と諸葛亮、同時に顔色を変えた。
司馬氏専属の密記せる銅符、決して並の細作が有ち得るものではない。これは、王医者が曹魏の細作のなかにおいて極めて高き地位にあり、おそらくは司馬懿みずから潜ませ、直に指揮する核心の眼線であることを意味する。こうなれば、すべてが合点がいく。なぜ王医者が丞相の医薬を安う掌り得たか、なぜ軍中を通じ暢に振る舞えたか、なぜこれほど多くの同党と連絡し得たか。その背後に立つのは、他ならぬ司馬懿その人なのだ。
私は幕の簾を隔てて、あの王医者が両足をふらつかせ、ほとんど地に崩れ落ちんばかりなるを看た。彼は、己がこの線を最深く潜め、最近く寄り添っていたと思い、たとえ事が露わになろうとも、司馬都督がきっと手段を講じて己を守り、他の証を滅し去るであろうと信じていたのだ。夢にも思わなかったろう、身に三年秘し隠したるその銅符まで、すでに白毦兵の手によって暗桝から捜し出されたるを。天衣無縫? 己が眼にはそうであれ、丞相の眼には、ただ早く看破されたる破れた網に過ぎぬ。
「連き上げよ」と諸葛亮の声は冷たく、半ばの情をも帯びず。
「丞相、この刻は夜静かにして、もし公に訊き問わば、恐らく……」と諸葛雲、逡巡す。
「公に及ぶことはない」と諸葛亮は淡く言った。「この幕のなかで訊き問わばよい。そなたは幕外に控え、何人たりとも近づくことを許すな。みだりに闖入する者あらば、殺しても赦さぬぞ」
「部下、命を承ります!」
諸葛雲は声高らかに応じ、身を翻して幕外へ退いた。重き幕の簾がゆるゆると閉ざされ、中軍の大幕全体を世から隔てた。幕内には銅灯のぱちぱちという微かな音あるのみ、気配は息を詰まらせるほどに重かった。
ほどなく、白毦兵の親衛二人が一人の老翁を押し連れて入ってきた。まさにあの製剤をもって諸葛亮を害さんと試みし王医者であった。
足取りは踉蹌たりしが、背はなお強く張っており、眼の奥に心得たる如き落つきを装う算計が過った。幕に入れば、「司馬氏に脅かされ、自らにもあらず」と口を胴に割り、さらに身に三年秘し隠し、司馬都督みずから下したるその銅符を掲げれば、丞相たとえ許さずとも、きっと投鼠忌器して、真に己をどうすることもできまい。三年の隠忍、この線は誰よりも深く潜め、彼は諸葛亮が天を翻すことなどできぬと信じていたのだ。
されど、親衛が一つの木盤を「がちゃん」と案の上に置き、盤のなかの司馬の銅符、密書十二通、暗号の帳が一つ残らず並べられたとき、彼が強く張った脊は、突然崩れ落ちた。
己が命を守らんとするその銅符が、あろうことかその中にあり、暗桝に縫った糸端までそのまま捜し出されたのだ。
「こ……これは、ありえぬ……」
王医者、唇をわななかせ、額に冷汗が一瞬に滲み出た。「そなたたち……どうして……」
幕に入ったとたん、彼は両足をふらつかせ、地に跪き、さきほどの算計は粉みじかとなり、ただ叩頭するばかり。
「丞相、お命をお赦しを! 丞相、お命をお赦しを! 老朽、一時の迷い、人に惑わされ、本心より丞相を裏切ったにあらず! どうか丞相、ご寛恕を、どうかご寛恕を!」
諸葛亮は冷たく彼を看おろし、その目は氷の如く、半ばの憐憫も無かった。
「わしはそなたを薄く遇せしにあらず、医薬を掌ることを命じた。されどそなたは密かに仲達と通じ、製剤のなかに年じゅう毒を下し、わしを死に至らしめんと欲した。言え、わしいかにそなたを赦すべきか」
一つ一つの言が、皆寒氷の利刃の如く、王医者を刺し、身を震わせた。彼は、すべてが露わになったるを知った。
「老朽……老朽、やむをえぬなり!」
王医者、声を震わせ、涕泗横流した。「老朽が家族は皆曹魏の境内にあり、もし老朽が従わずば、司馬氏がわが一族を皆殺さむ! 老朽、無理やりに迫られ、どうか丞相、ご明察を!」




