第23話:突然の相談と、当然の即答
その夜、営業が終わった後の静かな『S&S 王都旗艦店』のマスター室。
俺はシエルと、そしてフロアの片付けを終えてやってきたグリを前に、冷や汗をかきながら切り出した。
「……あのさ、ふたりとも。ちょっと大事な話があるんだ」
「はい、マスター。何でしょうか。新たな店舗展開、あるいは金融商品の追加でしょうか?」
すまし顔で手帳を開くシエル。その隣で、190センチの巨体をすっぽりエプロンで包んだグリが、どこか首をかしげるように豚鼻をフチフチと鳴らした。
「いや……そうじゃなくてな。俺……そろそろ店主を辞めようと思ってるんだ」
静寂が室内を包んだ。
流石のシエルも一瞬だけ目を見開き、眼鏡の奥の瞳を揺らした。
「……引退、でございますか」
「ああ。もちろん、今日明日でいきなり放り出して消えるなんて無責任なことはしない。引き継ぎもちゃんとするし、新体制が完全に軌道に乗るまでの数ヶ月……半年でも一年でも、俺ができる手伝いは全部やってから辞めるつもりだ。だが、俺の役目はもうここまでだと思う」
俺は本音を打ち明けた。
「元々俺は、ただのんびり酒場をやって、美味い酒と飯を出して過ごしたかっただけなんだ。王都の店もオープンしたし、お前たちが作った『O&A』の仕組みは完璧だ。俺がいなくても、この店も世界も勝手に回っていくだろ?」
俺の言葉を聞いたシエルは、しばし沈黙した後——フッと口元に深く感銘を受けたような笑みを浮かべた。
(……流石はマスター。王都の覇権を握り、国家の中央銀行として公認されたこの絶頂期において、あっさりと表舞台の権力を手放されるとは。表の権力に固執せず、陰からすべてを統括する『真の黒幕』へと昇華されるおつもりなのですね……!)
またしてもシエルの中で巨大な誤解が完成していたが、真剣な顔で深く頷いた。
「……承知いたしました。マスターのその深謀遠慮、謹んでお受けいたします。引き継ぎの計画および、マスターが陰から全権を指揮するための『終身名誉総裁』の役職をご用意いたします」
「いや名誉総裁とかはいらないんだが……まあ引き継ぎを分かってくれたならいい」
俺はホッと胸を撫で下ろし、今度は隣でじっと黙っていたグリの方を向いた。
「そういうわけだ、グリ。お前も急な話で驚いたろ? でも安心しろ。シエルにお前を『S&S 技能開発センターの最高教育長』として残すよう頼んで——」
「マスター?」
控えめな、しかし地響きのような低音ボイスが俺の言葉を遮った。
グリは小さな牙を覗かせながら、至極当然といった表情で首を傾げている。
「あたしも一緒に行きますけど?」
「……え?」
「え? じゃないですよ、マスター。あたし、マスターがどこか別の場所でお店を開くなら、当然そこについていきますよ?」
「お、おいグリ……! お前は今や、うちのグループの現場を仕切る立派な教育長なんだぞ? 王都に残れば、一生遊んで暮らせる破格の給料と地位が約束されてるんだぞ!?」
「そんなの、あたしには関係ありません……っ」
グリは豚鼻を小さくピクピクさせると、190センチの体を少し縮こまらせて、どこか愛おしそうに俺を見つめた。
「あたしがここにいるのは、素晴らしい役職のためでも、高いお金のためでもありません。……マスターが作ってくれる、いろんな料理と、マスターの選んだお酒があるからここにいるんです。マスターがいないお店で教育長なんてやったって、全然楽しくありません……っ!」
そう言って、グリは胸の前で大きな手をギュッと握りしめた。
「だから、あたしも一緒に行きます。マスターが新しいお店を始めるなら、あたしがまた看板ウェイトレスをやりますから……っ!(にっこり)」
地響きのような低音ボイスと、圧の強い満面の笑み。
だが、そこには一切の迷いも躊躇もなかった。
「……グリ、お前なぁ……」
俺は呆れ半分、嬉しさ半分で頭をかいた。
地位も名誉も莫大な報酬もあっさりと蹴っ飛ばし、ただ「俺の賄い」のために一緒についてくると言い切るオークの乙女。
「……分かったよ。じゃあ、俺が店をたたんで田舎に行く時は、お前も一緒だ。ただし、新しい店は本当に小さくて暇な店になるぞ?」
「はいっ! マスターの賄いが食べられるなら、あたし、どこまでもついていきます……っ!」
シエルが一人で納得して頷くなか、俺は苦笑いしながら冷えたビールをあおった。
無責任に飛び出すわけにはいかない。
まずはこの巨大になりすぎた『S&S』を完璧に仲間たちへ引き継ぐこと。
それが終わったら——今度こそ、グリと一緒に静かで平和な田舎暮らしを始めるんだ。




