第十四幕 鈴蘭
境西は境の中でも二番目に人口が多く、境で唯一の農業を担っているため外からやってきた人間の労働者も多い。
そこで作られた食材は境内や日本の一部にも卸される。境外で卸された場合はほとんどが加工済みの状態なので一般市民は産地がどこなのか把握できないようになっている。
そんな境西の統括者は年老いた狸の爺だった。見た目は可愛いがしゃがれた声でゆっくりと話す爺だ。
「はぇ…晴前教も信者ですか。うちは特に宗教の制限なんてもんはしとらんので誘拐犯がおる言われましてもなぁ…」
「晴前教について灼司殿に言及されなかったんですか?」
「もちろん、一度はうちでも制限しましたけど境西各地で暴動が起きて仕事にならんくなったんどす。労働者がいなくなっらうちはやっていけへんのですよ。だから布教をせぇへんことを理由にわしらは容認しとります」
「苦労されてるんですね」
「ほんまに困ったもんですわ」
短い爪でぽりぽりと頭を掻く。狸は亜細亜でしか見られない珍しい動物だったが、妖にもなると関西弁で喋るらしい。
境西の統括者は狸、名を『糸丸』と言う。前統括主だった大旦那から賜ったそうだ。
あくまで境西は他者へ布教しなければ宗教は自由。晴前教に繋がりがあるかと会話の端々まで気を配らせるが特に不審な点はなし。
横目で隣にいる朔乃介を見る。朔乃介もまた杏寿の様子を伺っていた。考えていたことは同じだったようだ。
「わかりました。引き続き、我々は境西を調査をさせていただきます」
「はいぃ。どうぞ調べえくださって構わんので、よろしゅうお願いします」
どうにも気が抜けそうな返事を受け取った杏寿と朔乃介は境西を歩きまわることにした。
しかしこんな長閑で田舎の境西に背広を着た人間がいると怪しまれるのは当然。出てくるものも出てこない。
かといって労働者に紛れるのも危険ということで、杏寿は策を思いついたと言わんばかりに人差し指を立てて朔乃介を見上げた。
「視認遮断術式で見て回ろう!」
「まぁ、それが妥当だな。ってか、栗花落が試したいだけだろ」
「新しく習ったからね。使わなきゃ損だよ」
「持続時間は?」
「一時間が限界だったんだよね」
「じゃあ、一時間経ったら休憩するか」
名の通り、他者から見えなくなる妖術だ。先月、杏寿は授業で習い、持続時間が三分だったのだが悔しくてナーシャや孝文に対してどこまで通ずるかと練習したら一時間まで持続することが可能になった。
故に実践は今回が初めてであり、試したくて杏寿の心はずっと浮き足立っている。
早速、杏寿は全身に妖力を巡らせ、調査を始めたのだが——。
「なんか…」
「どうかしたか?」
「…いや、何でもない」
「おい、気のせいにすんな。ちゃんと言え」
「ええ…?」
「それで暴走したの誰だ」
「……なんか、体が軽い」
杏寿の感じた違和感に朔乃介は首を傾げた。杏寿とてごく僅かな違和感でしかない。
軍学校に入学するまで妖術というものを耀から教わっていたが実践する時は人目が少なく、尚且つ命の危機に瀕した時のみという制限が設けられていた。
しかし耀がいる限り、命の危機に出会うことがほとんどなく、妖術もまた杏寿より長けている耀が扱うことが多かった。
その為、杏寿が妖術を自身で扱うというのは見習生になってからだった。
「妖術は朔乃介さん達より扱うことが無かったから、なんて言うか…今まで使わなかった筋肉を動かすみたいな、こう…体が重いっていうか…」
「あー、言いたいことは分かる。人が初めて妖力を扱うとそんな感じになるからな」
「そのはずなんだよ。そのはずだし体にまだ馴染んでない感覚も残ってたはずなんだけど…体が軽いの。もしかしたら一時間以上は扱えるかも」
「…それ、いつから起きた?」
「少なくとも今日が初めて。千葉での任務の時はこんな感覚じゃなかった」
立ち止まっている時間も惜しいため、疑問を抱えたまま杏寿は建物の屋根に飛び乗り、周りを見渡す。調査のために。
朔乃介も同様に屋根へ飛び乗り、目元を覆っていた布を外した。視認遮断術式で周りから見えない為、外したのだろう。
杏寿も外したいが前回の例がある。何が起きるかわからないため、仮面はそのままの方がいいかもしれない。
「原因、加護が発動しているからじゃないか?」
「え?今は発動してないよ?」
「そうじゃなくて、あれだ。加護が発動したから妖力の巡りが良くなったってのもあるんじゃないか?」
「そんなことあるの?」
「事例は少ないがないわけじゃない。俺の姉がそうだ。千葉の任務の時以前に加護が発動したことあるのか?」
「ない。いつも耀が守ってくれたから」
「そうか」
周りを見渡しつつ、綱渡りをするような心地で屋根を渡り歩く。吹く風に草土の匂いが乗り、杏寿の体を通り抜ける。
境は陽が上らない。だが植物は陽の光がなければ育たない。空を見上げれば晴天の空などなく、煌々と輝く星が散りばめられている。
「人工灯で植物が育つなんて異国の人が見たら喉から手が出そうだね」
「これもあの兎みたいな天才達の叡智なんだろ。人工だから成長速度も野菜の甘みも調節できるんだから、そりゃあここが食糧庫にもなるわけだよ」
朔乃介も田畑を見下ろし、素直に関心していた。
田畑を囲むように大きな電灯が配置され、そこから太陽と同等の光が放たれているそうだ。故に境西で働く人間の肌は日焼けをするし、他の地域の人間に比べて健康的である。
境は妖の都であるが今じゃ、人間の力がなければ成り立たない。妖同士の純潔を重んじる妖が多いらしいがそう言ってられるのも時間の問題かもしれない。
(国が滅ぶときは先住民が食い尽くされた時、だっけ)
国を渡り歩く度、耀は先住民と移民の比率を確認していた。この比率が狂えば迫害やどちらかによる一方的な侵略が始まるから。
そうなれば人間は争いを避けられない。戦争を起こさず対話で終結させた事例もないわけではないが、その殆どが奇跡の事例に過ぎない。
「なあ、栗花落」
「どうかしましてー?」
「やっぱり境西って半妖、多くないか?」
「確かに境東と比べればって感じ?もしかしたら誘拐犯は割と近くにいるかもねぇ〜」
「呑気だな。ちゃんと探せよ」
「探してますぅ」
唇を突き出し、呆れ顔をする朔乃介へ抗議する。
そんな杏寿の抗議がおかしかったのか、朔乃介は初めて杏寿の前で無邪気な笑いを零した。
「ははっ、仮面をしたまま抗議すると恐ろしさが半減するな」
「わ、わ…?」
「あ?何だよ?」
「別に…?」
笑った。——いや朔乃介も人間だ。感情があり、笑うこともあるだろう。
杏寿は思わず朔乃介から顔を逸らしてまた周りを見渡す。
何も不思議なことではない。耀もナーシャも孝文も杏寿の言動に笑みを浮かべてくれていた。なのに妙に奥歯が痒く感じるこの感覚は一体何なのか。
初めての心地に落ち着けず、気持ちを切替えるために杏寿はわざと話を戻す。




