信頼などない 三
「境・ザ・リターンとかやってらんないんだけどぉ~!」
境へ通じる扉の前で声を上げたのは蓮真だった。杏寿もまた同じ心境である。
あまり境には良い思い出がない。氷雨の言動、灼司からの挨拶代わりの拳をお見舞いされた場所だ。
しかし今回は前回の時と違って対談ではなく、本格的な犯人探し。
杏寿もまた泣きつくナーシャを宥めながらインターネットで晴前教の情報を集めた。インターネットへの扱いがお世辞にも上手いと言えない杏寿は早々に誇張された情報に白旗を上げてしまったが。
「期待してる、蓮真さん!」
「うるさい!トラブル娘!」
「私だって好きでトラブルなんて持って来てないってぇ!méchant!」
「文句なら日本語で話なァ!」
「…喧嘩してないでさっさと行くぞ、二人とも」
呆れた朔乃介の一言を区切りに杏寿達は境に足を踏み入れた。
前回は氷雨によって狐の面だったが、今回はちゃんと自身で選別して買った仮面をつける。買ったのは鹿の仮面。仮面から生えている角が可愛くて杏寿のお気に入りだ。
蓮真は変わらず前回と同じ猫、ウルシュは鷹、そして朔乃介は目を黒い布ので覆っているだけだった。
「朔乃介さん、それでちゃんと周りが見えてるの?」
「煽りか?」
「な訳ないじゃん!」
「悪い悪い、知ってる。ちゃんと見えてる。特殊な素材でできてるからこれ」
朔乃介からは杏寿達のことが見えているが、杏寿からすればいつもの朔乃介の赤い瞳が見えないのは残念だった。
そんなことを考えながら蓮真たちの後を歩く。先に灼司の計らいで用意してもらった拠点とする民家に向かうためだ。
「栗花落も仮面は視界が悪くないか?」
「そりゃあ見える視界は狭まってるよ。でも鹿の仮面、可愛いでしょ?」
「あ、そう…だな、良いと思う」
「でしょ~」
朔乃介に見えやすいように顔を上げて見せびらかしていると前を歩いていたウルシュから「平和ですね」と呟きが聞こえた。
だがウルシュの呟きも蓮真の舌打ちもどうでも良かった。それよりも杏寿には気になることがあるからだ。
前に比べてどことなく朔乃介との距離が近くなっていると杏寿は感じている。物理的にも心の距離的にも。
互いに秘密が開示されたから気を許してくれているのだろうと思うのだが、それとまた別の感情が朔乃介にはあるんじゃないかと杏寿は思っている。
(…うーん、近づきすぎたかな)
人からの好意は杏寿にとって不可解な感情の一つだ。
友愛、親愛、敬愛、これらは理解できる。杏寿にもそういった経験や気持ちを持ち合わせているから。
しかしその中で恋愛だけはどうにも良い感情を向けることはできない。恋愛において、否、異性からの一方的な愛に苦しめられたから。
記憶の奥底に隠した恐怖が墨汁のようにゆっくりと滲む。思い出したくもない記憶が蘇っては杏寿を苦しめる。
朔乃介が杏寿に向ける感情がどういうものであれ、他の班員よりは違うものが混ざっていることくらい多くの人間の視線を向けられてきた杏寿は嫌でも察してしまう。ただ名前を付けて決めつけてしまうと、朔乃介に失礼に値する故見て見ぬを振りをするのだ。
(まあ、あのころとは違うし…いざとなれば私一人で何とかなるか)
朔乃介が杏寿にとって敵と見なす行動さえしなければ問題は無い。ここで下手なことを言えばそれこそ藪蛇。
程なくして用意された民家に辿り着くと、そこには灼司がいた。今度は殴りかかることはなく、笑顔でこちらに手を振っている。
「よォ!迎えに行けなくてすまなか——はァ!?なんでお前がいるんだよ!?」
「お久しぶりです、灼司さん。どうぞ、余計なことは言わずにお願いします」
「おいおいおい!んなこと、あの坊ちゃんから聞いてねェぞ!?」
「灼司さん、余計なこと言わずに」
「えェ…?まじかよ…?」
浮かべていた笑顔は簡単に歪んだ。原因はウルシュにあるらしい。その場にいた全員の視線がウルシュに注がれる。
「二十歳」「怪しいガキ」「ずっと胡散臭い」
「ここぞとばかりに言葉で殴るのやめてもらえますか、ガキ共」
「ガキがガキに何か言ってんなァ。坊主、友達は大切にした方がいいぞォ」
「うるさいですよ。こっちだって色々あるんですから」
「いやァ?自業自得の間違いだろ?」
班の中でも一番、生い立ちがよく分からないウルシュが灼司と顔見知りということはいよいよただの魔女の後継者とはいかなくなった。
というより桃坂の手先である以上、そこらの移住してきた異国人とは違うというのは杏寿も分かっていたが。
「坊ちゃんって桃坂先輩の事?」
「栗花落さんも余計な事は言わない方がいいですよ」
「私の事、尾行しておいて今さらじゃない?」
「うーん、命知らず」
日頃から思っていたことを言えたところで家に入ることになった。
用意された民家はかなり広く、武家屋敷と言ってもおかしくはなかった。だが人が宿泊できるだけの最低限の物しかないので民家となっているのだろう。全くと言っていいほど誰かが暮らしていた形跡や生活感がない。
「宿泊に必要なもんはこっちで用意したぜェ。でも足りないもんとか出てきたら行ってくれや」
家の中を案内してもらいながら杏寿は用意された部屋を見渡す。
杏寿が今、住んでいる館は洋式なので完全な和式は二度目だった。一度目は奈良での任務の時に宿泊した宿屋。あそこも悪い場所ではなかったが古く、部屋が狭かったのであまり落ち着いて眠れなかった。
だが今回、用意された部屋は杏寿が使っている部屋と変わらないくらいに広いのでいくら散らかしても手狭にはならなさそうだ。
案内が終わり、居間に戻った瞬間、蓮真が素早く遮音術式を施した。何か任務について話す気なのだろうか。
「灼司さん、さっそくで悪いんですけど確認したいことが」
「おう、何だァ?」
「ここで寝泊まりさせてもらうのは有難いんですけど、境東の立場が危うくなりません?」
「あ?んなこと気にしてんのか?それなら心配すんな、お前ら以外にも境東に滞在する人間は多いからなァ。…加えるならここ近年、境での人間と妖、半妖の割合はそう変わらなくなった。それだけ人間と半妖が増えたっつーことだ。だから妖による差別も晴前教のつけ入る隙も増えたわけよ。こっちとしても晴前教の尻尾は早々に掴みたいところでなァ」
「何か実害でも?」
「本来境で回るはずの金の流れが奪われ、晴前教に感化された半妖による暴動も増えたしよォ。それから審議は不明だが嫌な情報も掴んじまってな」
灼司の眉間に皺が寄る。元々迫力のある虎の顔なのに、さらに迫力が増している。しかも怒りでグルグルと唸り始めた。
小春も温厚と言っていた虎がここまで怒りを示すのだ。晴前教は境でも猛威を振るっているらしい。
「『百鬼デモクラシー』——近いうちに晴前教の信者たちによる大規模デモクラシーを起こそうとしているんだよ」
その場の空気は静かに凍る。誰も灼司の言葉に言及ができないままでいた。
しかしそんな空気の中、杏寿は耀がいたら嬉々として「商売ですよ!」なんて言っていただろうと考えてしまい、どこか上の空だった。
それはきっと日本に思いれが無いから。そして心のどこかで何かに縋る者が自信をもって盤上に立つ者に勝てるわけがないと思ってしまっているから。
その上でこの国でどれだけの犠牲が出ても、きっと先を見据えて笑っているのは恐らくかの子だ。
『自分を信じている人間ほど恐ろしいものはありませんよ。そういう者に幸運の風が吹きますから』
過去に耀はそう言いながら報酬金で買ったワインを飲んでいた。
だから杏寿は信じるのだ。弱く逃げ続けた自身でなく、杏寿を強き者に育てた耀を。




