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栗花落杏寿の爽味  作者: 椄瀬結


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実弟 三

「何か面白いものでも見ました?」

「いえいえ、何だかんだお嬢様は菖十様にお優しいですね。当主様方にはあまり笑顔を見せられないので」

「笑う理由があれば笑いますよぉ?」

「人間、皆そうですよ。それにお嬢様って機嫌がいい時はフランス語が出るんですよ?」

「え、そうなんですか!?」

「あら、気づいてませんでした?ふふっ、機嫌が良いうちに風呂に浸かっちゃいましょう!」


 ナーシャに背中を押され、そのまま杏寿は風呂場へと連行されてしまった。

 菖十にも煙草の匂いがすると言われてしまったし、さっさと湯で流す方がいいのかもしれない。

 大人しくナーシャに服を脱がされ、体の隅々を洗われていく。

 こうして誰かに他者に体を触れられ、洗われることにもようやく慣れてきた。


「ナーシャさんも私がゲームセンターに行くこと、意外でした?」

「えっ」


 湯浴みが終わり、清潔な手拭いで髪を拭かれながら杏寿はぼんやりと問う。

 化粧台の鏡越しにナーシャが不意をつかれたように眉をぴくりと上にあげた。やはり意外だったらしい。

 うーんと唸った後、ナーシャはどうにか口を開いた。


「何と言いましょうか…ワタシはゲームセンターを低俗な場所とは思いませんが、でも思われてもおかしくない場所とは存じてます」

「確かに貴族のお嬢さん、坊ちゃんが気安く行ける場所ではないかも」


 フランスのパリの片隅にある貧民街、とまで言わないが貴族がお忍びで行くには最適とは言えない。

 貴族社会で生きてきた菖十には理解し難い場所なのだろう。

 ナーシャは椿油を杏寿の髪に塗り込み、丁寧に櫛で馴染ませていく。

 すると化粧台に置いておいたニシキが点滅し、メッセージが届いたことを杏寿に告げる。

 ドライヤーの温風を感じながら杏寿はニシキを起動させた。

 メッセージの差出人は水上であった。今日のことだろうか。

 無機質な文字が羅列されたメッセージを読み、杏寿はその内容に目を見開いて立ち上がった。


「お嬢様!?何ですか!?」

「あ、すみません。思わず…」


 杏寿はメッセージ内容を映し出したホログラム画面をナーシャにも見せる。

 今度はナーシャがドライヤーを持ちながら驚く番だった。


「一週間後に境!?大阪ですよね!?」

「うん。また荷造りお願いします。なるべく身軽で」

「この水上という方はお嬢様のことを何だと思っているのですか!?」

「兵士じゃない?」

「これだから役人は!一週間で諸々の準備だなんて!」


 その後も何か文句を言っていたがドライヤーの音にかき消されてしまい、聞き取れなかった。

 とりあえず適度に頷きながらメッセージの内容を確認する。

 大阪にある妖の都、『境』への遠征任務という名の護衛だ。護衛対象はまさかの水上。上官を守ることになるとは。

 しかも護衛の人選は水上であり、他の護衛には蓮真が選ばれていた。

 つまり境への任務の人員は水上、蓮真、杏寿の三人だけだ。

 ふと疑問が生じる。今回の任務に朔乃介が選ばれていない訳だが、杏寿は誰に紬器を紡いでもらえばいいのかということ。

 少なくとも蓮真は祓魔師であり紬師だ。一人で完結しており戦力に申し分はないが、他人の糸を紡ぐことはできない。自身の糸しか扱えない。

 ならば水上になるのだろうか?確かに戦闘訓練の際に自身で紡いでいたが誰かの糸を紡いでいるところを見たことはない。


 (対妖用の武器を買い込んでおくか)


 奈良の時のように現地調達でもいいが、護衛となればそう簡単に持ち場を離れるのは難しいだろう。

 よって自由行動は制限されるものとして考えないといけない。


 (任務後に菖十と大阪観光できるかもって思ったけど無理だなぁ、これは)


 脳裏に眉を下げた菖十が浮かぶ。

 そもそも任務なのだ。遊びに行くわけではない。誘うのはまたの機会にした方がいい。


「お嬢様、少し遅くなりましたが夕餉にしましょう。準備をしてまいりますので先に食堂へ」

「ありがとう、ナーシャさん」


 寝間着(ネグリジェ)を翻して椅子から立ち上がると、すかさず厚手の羽織を羽織らされる。

 邸宅にはナーシャと孝文しかいないので別に良いんじゃないかとここで住み始めた当初は主張していたが、ナーシャの怒涛の説得に杏寿は諦めるしかなかった。

 これに関しては孝文もナーシャ側だったのだ。彼なら「別にどっちでもいいじゃないっすか」とかいいそうだったのに、出てきた文言は意外にも「風邪ひきますよ」だった。

 食堂へ向かう廊下を歩いているとそんな孝文とばったり会ってしまった。いつの間にか本邸から帰ってきていたらしい。


「送り届け、お疲れさまでした」

「まったくです。菖十坊ちゃんも懲りませんねぇ」


 何か用があるのか、孝文は杏寿の数歩後ろをついてくる。

 大抵こういう時は何か報告事がある。


「それで話は変わりますけど、お嬢に報告が」

「どれについてですか?」

「桃坂家がお嬢に監視を付けていた件です」


 ちょうど昼間、ウルシュに問いただした内容のものだ。

 禄士郎と話した後日、孝文に頼んで調査をしてもらったのだ。この際にウルシュが杏寿を監視していたことが分かった。

 だが、何故桃坂家が杏寿を監視していたのかは不明なままだった。


「それで何故桃坂は私を監視していたんですか?」

「お嬢に何か疑惑、というより奥様からの飛び火かと。奥様の商売相手の中にここ数年で勢力をつけている宗教団体の信者がいまして」

「確か桃坂は政界における中立勢力でしたっけ?」

「はい。どうにも国家を脅かす存在になりつつあるようで桃坂家が御上(おかみ)から駆り出されている状況らしいです」

「そんな相手に母様が商売をしているから私にもってことか。まあ、私は異分子も異分子だし」

「人の口に戸は立てられませんからね。おかげで今、お嬢は有名人です」


 そろそろ新聞記者に後をつけられてもおかしくない頃合いだ。

 邸宅には認識阻害術式を施しているが外に出てしまえば杏寿自身が自衛するしか身を守る手段はない。

 食堂に着き、入るなり孝文が杏寿の座ろうとしていた椅子を少し引く。

 普段から砕けた態度でナーシャに怒られたりはしているが、ちゃんと仕事はする男だ。杏寿は椅子に腰を掛けた。


「孝文さんたちの方に記者は?」

「まだ来てませんと言いたいですが何名か聞きつけた奴らが俺やナーシャの周りをうろついてます。どうせすぐに旦那様からの圧が行くと思うんでお気になさらず。むしろお嬢の方が的になりやすいかと。変化はないっすか?」

「今のところはないけど時間の問題かもしれません。視線や写真には気を付けてますが限界はあるので」


 運ばれた食事に箸を差し込む。

 ここに来た当初は異国帰りということもあってナイフとフォークを使う洋食が多かったが、最近は箸を扱えるようになってきたので和食も増えた。

 それでも里芋などの丸い食材は掴むのが苦手で苦戦はするが。


「タカフミ、食事中に仕事の話はやめて。お嬢様が満足に食事できないでしょう?」

「へいへい。お嬢、俺も飯食ってきますわ」


 杏寿は部屋を出ていこうとした孝文を呼び止めた。


「ここで食べていけばいいじゃないですか。別に使用人がここで食べちゃいけないって約束事もないですし」

「まじすか。じゃあ、ご相伴にあずかります」

「は!?タカフミ!?」

「ナーシャさんも一緒に食べませんか?」


 じっとナーシャを見つめる。ずるいと分かってても杏寿はこの後の結果が目に浮かんでしまう。

 ナーシャは杏寿の過去を知って同情してるのか、それとも純粋に慕っているか、或いは両方。杏寿のお願いを叶えてくれる。

 今も杏寿の視線から逃げて瞳が右往左往している。仕事への矜恃と自身の感情でせめぎ合っているのだろう。


「お嬢が一人で飯食うのも寂しいだろ」

「で、でも!」

「別にここで食うだけだし、旦那様達もいねぇしな」

「…ううっ、分かりました。タカフミの分とワタシの賄いをここに持ってきますね」


 折れた。杏寿のお願いがまた一つ叶った。

 どちらかと言えば孝文の言葉に折れたという感じだが。

 それでも誰かと食事できるのはいい。学校では班員の皆と、任務の際は朔乃介と共に食事を取ることが圧倒的に増えた。

 異国にいた頃は殆どが耀と食事をすることが多く、その際にテーブルマナーなどを学んだ。

 耀と二人きりの食事は楽しかったが知らない人間との会食や招かれたパーティのご飯は美味しいとは感じられなかった。


『お姫様、宿に戻ったら茶を淹れますから頑張れますか?』

『うん…』

『ふふっ、茶だけでは寂しいですから菓子もつけましょう。一緒に食べましょうね』

『うん、食べる。早く帰ろう耀』

『ええ、はい』


 ワインが入ったグラスを揺らした耀は仕事用の笑みを外して、何とも愛おしそうに目を細めて言った。

 懐かしい過去に浸っていると孝文が「お嬢」と杏寿に声を掛けた。

 記憶の海から顔を上げると呆れた顔をした孝文が杏寿を見ていた。どういう経緯で呆れ顔になったのか問いただしたいところだ。


「そういうのでいいと思いますよ」

「うん?何がですか?」

「菖十坊ちゃんを誘う話っす。俺たちを飯に誘ったさっきみたいに」


 気楽に、自然と誘ってしまっていたがそうか、と納得した。

 家での立場や悠史のことがあって菖十へ無自覚に隔たりを作っていてしまったいたようだ。

 もしかして菖十はこうして誘われたかったのか。反省をしたとこで杏寿はふと菖十とのやり取りを思い出した。


「ん?でも私、ゲームセンターへ一緒に行くか誘いましたよ」

「ははっ、場所が悪いっすね。しかもあの時、菖十坊ちゃんに言われて誘ったでしょうに。そりゃあ納得しませんって」

「そういうものですか…」

「そういうもんです」


 孝文はケラケラ笑いながら席に着き、ナーシャが運んできた賄いに目線を移した。

 二人の賄いは初めて見たがかなり興味深いものだった。

 杏寿が食べている夕餉のおかずが白米の上にのっている丼になっている。同じものおかずのはずなのに丼にのっている方が美味しそうに見えた。


「ナーシャの賄いは大抵、白米に全部のせっすよ」

「タカフミィ!!」

「事実だろうが」


 そう言うと孝文は箸を持ってさっそく丼にかぶりついた。

 杏寿も夕餉を取りながら席に座ったナーシャの方を見た。


「いつもおかずを全部米の上にのせてるんですか?」

「所詮使用人の賄いですから…でも!お嬢様の食事は細部まで拘って作り、盛り付けてますので!こんなことをしているのはワタシとタカフミの分だけですから!」

「えー、私もそっちがいい」

「いけません!ダメです!」

「どうしても?」

「それだけは譲りませんよ!ダメです!」


 ナーシャは箸を持ったまま、胸元で腕を使って×印を作った。

 そんな二人のやり取りに孝文はおかずの里芋を飲み込んで、またヘラリと笑う。


「勘弁したってくだせえ、お嬢。ナーシャはお嬢のご飯を作るのが好きなんっすよ。それにここに来た当初より食べられる量も食材も増えて、厨房から鼻歌が聞こえるくらいには楽しんでやがるんで」

「何でもかんでも言わないのタカフミィ!!」

「わはは、歌が聞こえるんだから仕方ねぇだろ」


 確かにナーシャはいつも笑顔で料理を運んでくる。色々な食材を使っているようで目でも楽しめる。

 孝文に言われないと気づけなかったことだ。


(私、耀以外のご飯も食べられるようになったんだなぁ…)


 ナーシャと孝文の心地良い言い合いを聞きながら杏寿は温かい白米を口に運ぶ。

 自然と杏寿の頬が上がる。いつも食べている白米なのに、こんなにも甘くて美味しい。


『私以外が作った料理はそんなに美味しいですか?』


 耳元で囁かれたようだった。杏寿は即座に振り返るが後ろには誰もいない。

 そもそもありえないのだ。聞こえた声の主はもうこの世にはいない。

 幻聴が聞こえるほど焦がれているということなのか。杏寿は手入れしてもらった髪を触れる。


「お嬢様?どうかしましたか?」

「――ううん、何でもないですよ」


 変わりつつある日常に疲れが溜まっているのかもしれない。

 杏寿は二人の会話に混じった。

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