ファムファタル 四
ウルシュの影に落ちて辿り着いた先は軍学校の最寄り駅から二つほど先にある駅から徒歩圏内にある純喫茶店だった。
店の窓ガラスから奥の席でクリームソーダを飲んでいる杏寿が見える。すぐにでも相席して珈琲の一つでも注文したいところだが、今の朔乃介にはそれができなかった。
何故なら目の前に広がる視界がぐにゃりと歪んだり伸びたり、胃の中をぐるぐると掻き混ぜられているみたいで体調が優れない。
「大丈夫ですか、椿さん?」
「き、気持ち悪い…吐きそう…」
「おや、僕の魔力と椿さんは相性が悪いみたいですね」
「…それもだろうけど何か車で山道を走っている時の酔いに似てる…キモチワルッ…」
「乗り物酔いですね。お可哀想に」
胃から込み上げる胃液をどうにか押し返し、朔乃介は震える足で立ち上がる。ウルシュとやり取りをしているうちに視界が元に戻ってきた。今後、ウルシュに移動を頼むのはやめよう。
朔乃介はウルシュに礼を言って店の扉を開け、杏寿の向かいの席に腰をかけた。顔が真っ青のまま。
「驚いた。来ちゃったの?」
「預けられても困る」
「その割には顔色悪いよ?耐性ないのに影移動してきたんだね?」
「…あれは二度とごめんだ」
どこかへ消えてウルシュがいない外を眺めながら朔乃介は言う。
杏寿が言った影移動というのは妖術で言うところの移動術式に類似するものなのだろう。
移動術式は術者が優秀でなければ扱うのが困難な術式だ。何せ、車や電車要らずの便利な術式故、比例するように移動先が遠いほど扱える者は少ない。
かく言う朔乃介も移動術式は成功した例はない。
そして水を運んできたウェイターにレモンスカッシュを注文し、話題を変えた。
さすがに珈琲を頼めるほど体調は回復しなかった。
「忘れる前に渡しておく」
「ありがとう。ジャケットがあると走りずらいんだよねぇ」
ジャケットとネクタイを渡した所でウェイターがレモンスカッシュを朔乃介の前に置いた。
朔乃介は乾いた喉を潤すため、ストローで四角い氷をカラカラと回し、炭酸とレモンシロップを馴染ませていく。
ストローでグラス内を掻き回す度に炭酸の気泡がパチパチと弾ける。氷の上に置かれていた赤い小さなさくらんぼは水底に落ち、飲み切った時のご褒美へと昇格した。
「シロップはいれないの?」
「酸っぱいものが飲みたい気分」
少し下品だがゲロを吐かないだけマシだろう。朔乃介はストローに噛みつき、胃酸が行き来した喉にレモンスカッシュを流した。
甘みがないレモンスカッシュは檸檬の本来の酸味と僅かな苦味が口の中に広がる。
檸檬の爽やかな匂いが朔乃介の鼻腔を通って肺に流れていく。色んな出来事が重なり、昂っていた気持ちが檸檬の匂いのおかげで落ち着いていく。
朔乃介の一連の様子を肘をついて見ていた杏寿は が「それで」と言葉を投げてきた。
「どうしてわざわざ追いかけてきたの?」
「気になったからの一択。それじゃあ、答えにならないか?」
「――ううん、充分。朔乃介さん、どこまで私のこと調べた?」
ウルシュに見せた蠱惑的な笑みではなく、呆れたような――どこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
試されている、という感じはない。杏寿の中で朔乃介が杏寿自身のことを調べたという確信があるのだろう。
勝手に調べたことに後ろめたさがあった朔乃介はなるべく調べたことを杏寿にバレないようにしていたが無駄だったのかもしれない。
「姉が貴族の仲間入りしたから社交界で見聞きしたことを教えてもらった。俺が知っているのは貴族の中で流れている話程度…だけど嘘じゃないにしても聞いた話が他者から見た話でしかないってことは今日の栗花落を見て思った」
「…」
「少なくとも栗花落、お前は――連れ去られた後の生活の方が楽しかったんだろ」
憶測だ。だが言ったことは間違っているとは思っていない。
杏寿は武器を扱う時、楽しそうに扱う。まるで幼子が玩具を与えられてはしゃいでいる様な。
それに対して兄への態度は怒りそのもの。
攫われ、慣れない土地で暮らし、挙句の果てには武器商人の用心棒として命を懸けていたなんて他者が聞けば同情して涙を零すだろう。
でもそれは他者から見た杏寿であり、杏寿からすれば貴族の家で暮らすよりも自由で楽しいものであったのではないか?
千燈兄妹のような互いを補うような双子がいれば、千代女のように我儘お姫様の美里と溝ができている姉妹もいる。
人の地獄なんて見えないものだ。
「だけど俺はお前がお兄さんを嫌う理由は知らない。概ねそこら辺の事情が絡んでいるのは予想はできるけど」
「そこまでは情報が出回ってないんだ。まあ、そりゃそうか。兄さんを嫌ってる理由なんて私しか分かってないだし」
「――俺は理由を話す相手にはなれないか?」
朔乃介がこんなことを言い出すのは予想外だったのだろう。
珍しいことに野犬相手に無表情で戦っていた杏寿が目を見開いて口を開けたまま固まってしまった。
気恥ずかしくて目を逸らしそうになるが、ここで目を逸らしたらさっき言った言葉の重みが無くなってしまう。朔乃介はむず痒くなる背中を無視しながら杏寿を見つめ返した。
そして会話のないにらめっこに勝ったのは朔乃介だった。
「朔乃介さん、関わりたくないとか思ってそうだったのに」
「確かに面倒事は勘弁してほしいが…俺でも意外なくらい栗花落の相棒を楽しんでるみたいでな。だから相棒を継続するには何も知りませんでした、ってのは無理だろ。……まあ、お前が俺とコンビを解消したいなら止めねぇけど」
「えー?止めてくれないの?」
「俺の我儘だからな」
「じゃあ、朔乃介さんが隠していることを知りたいって私の我儘も通用するね?」
近くの窓ガラスから光が柔らかく差し込む。
差し込んだ日差しがかつて過ごした曾祖母の家の縁側に差し込む日差しと似ている。
雪女なのに太陽の光は平気らしく、よく家に訪れていた祖父に溶けるよなんて言われていた。
『薫おばあちゃんはどうして曾爺ちゃんと結婚したの?』
曾祖母である薫の家で預けられてからずっと思っていたことだ。
薫の家には薫と朔乃介しかいない。偶に様子を見に祖父が来るくらい。
人間と妖怪の寿命も価値観も容姿も異なる。なのに薫は曽祖父と生涯を共に歩むことを選んだ。同族の男ではなく、人間の男を選んだことにずっと疑問を抱いていた。
だから幼い頃の朔乃介は疑問を薫に問うたのだ。
その時、薫は明確に、それでいて誤魔化すこともなく朔乃介に答えた。確か――。
(自分の抱えている秘密を差し出したい。そしてお爺ちゃんの隠してるものを暴きたくなった、だっけか)
前者はともかく後者はなんと悪趣味、と思ったが今なら分かる。
茶色の後れ毛が少し傾いた顔と共に細い指の隙間から零れ落ちる。掌は桃色に染まった頬に添えられ、朔乃介を見つめる赤みがかった瞳は細く弧を描いている。
瞳が弧を描くことでぷくりと浮いた涙袋、この空間が楽しいと言わんばかりに上がる口角と行儀悪くつく肘。
今、目の前にいる杏寿から目が離せなかった。
暴きたい。この笑みを崩したい。その先に杏寿の本音が眠っているはずだ。
本音を知るためにもまずは壁を壊すことが必要。それは朔乃介自身も例外ではない。
「俺は先祖返りした半妖だ」
「やっぱりそうなんだ」
「雪女の血が流れてる。この力を使えば多分栗花落と張り合えるくらいには戦える、と思う」
「ええ~!?そうなの~!?」
「随分嬉しそうだけど、お前とは戦わないからな」
朔乃介はグラスの中に残った氷を一つ、口に含んで歯で噛み砕く。ガリガリと口の中から音が鳴る。
「私は使用人によって誘拐されたとされてるけど、本当は違う。私はね、あの家から逃げるために当時使用人として人間に擬態していた李耀の手を取った」
「それがどうなって兄嫌いに繋がるんだよ?」
「私が嫌いなのは兄さんだけじゃないよ。家族みんな嫌い」
嫌なものの話をしているのに杏寿から笑顔が取れない。杏寿なりの防衛本能だろうか。
「もし耀が私を攫ってくれなかったら――私は兄さんの友達をこの手で殺していた」
朔乃介は少し反省した。とんでもない女を好きにってしまった。
ちなみにメロンとビワを切って用意してたのは千代女です。可愛いお姉ちゃんです。いいね。




