第六幕 化け物
村で朝日を迎えたのは二度目となった。
朝餉を済ませた杏寿は夜中の間に乾いた背広やシャツに手を通し、ようやく履きなれてきたスニーカーを履く。
今日、朔之介とは別行動をする為に部屋に書き置きを残して自転車に跨った。
別行動であれば先に起きた杏寿が自転車を使っても文句はないはずだ。別の文句は飛んできそうだが。
ガタンと自転車が小さく跳ねる。井東の家までは一本道なので迷うことはない。
ぬるい風を浴びながら自転車を漕ぐと家の前で仕事準備をしている井東の姿が見えてきた。
「おはようございまぁ〜〜す!!井東さぁ〜〜ん!!」
杏寿は右手をハンドルから離して大きく手を振る。
大音量の挨拶に肩をビクッと揺らし、作業を止めた井東が怪訝そうな顔を上げた。相変わらず目の下の隈は健在している。
自転車を家の前に停車させ、改めて挨拶する。
「おはようございます!」
「…朝っぱらから元気だな。治安調査で来たなら返答は昨日と同じだぞ」
「いえいえ、今日は聞き込みではないです。お手伝いにきました!村の皆さんの生活を知り、手助けをすることも白夜軍兵士の仕事ですから!」
嘘は言っていない。
郷に入っては郷に従え。奈良に来る前の授業で散々言われた文言だ。
寄り添わなければ人間は警戒し、何かを話すことなんてない。
故にこうして朝から村の端まで自転車をかっ飛ばして来たのだ。
「お手伝いできることありますか?」
「ないな。気持ちだけ受け取っておく」
「なら薬草狩りの護衛なんてどうでしょう?」
「いらない、って言えばアンタは帰るのか?」
今度は井東から質問を投げられてしまった。昨日よりも訝しむ目元に皴が寄っている。
ここで引いてしまっては違和感を村に残したまま、帝都に戻ることになる。
この違和感がただの勘違いであるならそれに越したことはない。
それを確かめる為にも杏寿は首を振り、再び井東の目を見た。そして決して目を逸らしはしなかった。
「…好きにしろ。森で迷子になっても置き去りにするからな」
井東はけんもほろろに言い、籠をもって山の方へ歩き始めた。
杏儒もまた自転車を置き、井東の後を追いかける。
兎狩りで森に入った時、獣道を歩いたが頻繁に井東が決まった道を歩いているせいか随分歩きやすい道になっていた。
歩いている最中でも会話はない。が、生えている薬草を見つけると立ち止まっては杏寿の姿を横目で確認してくる。
今だってそうだ、薬草を取りつつ周りに警戒している。やはり野犬に全く警戒していないわけではなさそうだ。
杏寿は薬草を摘んでいる井東の近くにしゃがみこみ、生えている薬草を見た。
赤黒色なのに花弁の内側は白く、産毛のような毛が生えている変わった花。漢方などで重宝される地黄だ。
「地黄ですね」
「薬に詳しいのか?」
「親が薬を手作りする人だったので。薬の作り方を教えられました」
「そうか。…ならアンタも手伝ってくれ。その方が早く帰れる」
森に響き渡るほどの元気な返事をした後、杏寿はせっせと地黄を摘んでいく。
ただ花ではなく根が薬になるので根が折れぬように丁寧に土の中から取り出す。
ある程度摘むと井東は立ち上がり、何も言わずに歩き出した。
杏寿も慌てて井東の後を追いかける。
「全部は取らないんですね」
「全部取ると次が取れなくなる。少しだけ残しておけばそこから増えて次も同じ量が取れるから」
「はへぇ」
空気が抜けたような返事をしつつ、違う薬草も摘んでいく。どれも見たことがある薬草で懐かしい気持ちになる。
中国に滞在していた頃は日本から出て間もない頃だったので環境の変化に適応できず、何度も床に伏せることがあった。
その度に耀が薬草を煎じたり、症状に合わせた漢方を作ってくれた。
ヨーロッパでは漢方薬という文化が浸透はしていないものの、薬に使う薬草は大差ないは無いため小遣い稼ぎとして街の薬局に売ったりもしていた。
(……やっぱり山に入ってから見られてるなぁ)
山に入ってから三十分ほどが経った頃、感じていた視線が勘違いではないことに確信をもてた。
「あ…」
薬草を摘む手を止めた井東は眉間に皺を寄せ、何かを見つめている。
杏寿もすぐさま視線の先を辿る。そこには黒い靄が体に絡みつき、鋭い犬歯を見せて唸る犬がいた。狼ほどじゃないにしても痩せほっている野犬よりかは遥かに体が大きい。
何より敵意、殺意が溢れんばかりにこちらに向いている。
(でも攻撃してくる様子はない。何故だ)
ジャケットに隠している妖用の銃に手をかけながら横目で井東を見る。
普通の人間なら狼狽えたり、怯えたり、すぐに逃げ出す。
たとえ靄を纏っていない野犬であっても、臨戦態勢の野犬を目の前にしてこんなに落ち着いていられるのは何度もこういった現場に遭遇しないと無理だ。
井東は野犬に遭遇したことはあると言っていたがすぐに逃げるから襲われるなどと言った被害にあっていないと杏寿に答えた。
襲われた事があるならそれこそすぐに背を向けて走る。
なのに井東は野犬から目を逸らさず、ゆっくりと距離をあけるために後退している。
「おい、逃げるぞ。そのままゆっくり後ろに後退して距離をあけろ」
「私なら対処できます」
「…別にしなくていい。アイツらは襲ってこないから」
襲ってこないと分かっている。村人が口々に野犬がと言ってることに対して大丈夫だと言うのであれば相応の理由がある。
確かに野犬達が唸り声を上げ、殺意を向ける先は杏寿だ。
野犬を見つけてから野犬は一度も井東を見ていない。
「行くぞ、走れ!」
距離が大きくあいた瞬間に井東は杏寿の手を掴み、走り出した。
井東が先導して走るよりは杏寿が手を引っ張る方が速いがここは素直に従う。
忠誠ではない。警戒でもない。野犬達は井東に対してまるで牙を向けてはいけない、というような態度だった。故にそばに居た杏寿にだけ敵意を向けてきた。
山を駆け下り、井東の家に着く頃には野犬の姿は見えなくなっていた。
(本当に追いかけてこなかったな)
息をどうにか整え、気まずそうに杏寿を見ない井東を見る。
「本当に襲ってきませんでしたね」
「そう言っただろ」
「野犬への対処も適切でしたし、護衛はいらなかったですね!」
「…そういうことだ。これで分かっただろ。もう帰ってくれ」
嘘である。野犬への適切な対処なんて狩るしかない。
ただの野犬に特定の人間を攻撃しないなんて、忠誠心がない限り無理だ。
これが芝居ならば大舞台に立っていないとおかしい程の名役者だろう。
井東は杏寿を一瞥した後、家の中へ入ってしまった。これ以上会話をする気がないらしい。
杏寿もまた自転車に跨り、村の中心部へ走らせる。
するとちょうど眠たげに欠伸をしている朔之介の姿が視界に入る。この村の誰よりも目立つ為、非常に分かりやすい。
「おはよう、朔之介さん」
「もう帰ってきたのか」
「色々ありましてなぁ」
自転車を止め、跨ったまま朔之介と話していると目が覚めた子供達が群がってくる。
子供の体力は昼夜を問わずに源泉のごとく溢れている。
人と関わるのが苦手な朔之介は子供にとっては物珍しいようで子供達の人気者になっていた。今も朔之介を遊具と勘違いしているのか、おはようございます!と言いながらよじ登っている。
子供のお守りに巻き込まれるのは面倒なので杏寿は早々に別れを告げ、宿へと向かった。自転車も返却しないといけないし、などと誰も聞いていない言い訳を思いながら。
「あら、お早いお戻りで。自転車、あんまり楽しなかった?」
宿に戻るとちょうど入口で掃除している女将がいた。
そういえば他の村人より顔を突き合わせているから忘れていたが女将に治安調査を行っていない。
杏寿は自転車を停める傍ら、女将に問いかけた。
「女将さん、何か困っていることってありませんか?野犬とか妖とか」
「そうねぇ…妖様はともかく、野犬は最近田畑を荒らされて困ってるわね。あ、困ってることって何でもいいの?」
「いいですよ!出来ることなら何でも!」
「そう?じゃあ、いつもの相棒君か泉波君が帰ってきてからでいいから屋根の補修をしてほしいの。老朽化しててそろそろ補修しないといけなくて」
女将は眉を八の字に下げ、問題に上がった屋根を見上げる。
杏寿も一緒に屋根を見上げる。パッと見、崩れそうという感じでもないが宿自体が古い家屋なので老朽化かと言われれば納得できる。
「あ、じゃあ駄賃を渡すから補修の為の工具を買ってきてくれない?工具も新しいものを買おうとして忘れてたの」
「もちろん!私も工具店に用事があったので!」
「そうなの?何か買いたいものでもあるの?」
「任務で必要になりそうので調達しておこうと思いまして」
「へぇ。軍人様も大変ねぇ」
不思議そうに答える女将から金を預かり、杏寿は商店街へ向かった。
荷造りの時はナーシャがいたのでトランクに武器を詰めることができなかった。
袖の内側に隠した万年筆だけじゃ足りなくなるだろう。なら現地調達するまでだ。




