第四話 旅立ちの日
留学の日が来た。
荷物はすでに馬車へ積み込まれている。忘れ物がないか最後に確認していると、扉が叩かれた。
「アーイシャ、入っていいか?」
「どうぞ、お入りください」
入ってきたのはサキートだった。
「もう出発するのか」
「はい」
「そうか……」
サキートは部屋を見回した。私物は整理され、部屋の中には私の物は何も残っていなかった。
開け放たれた窓から風が入りカーテンを揺らす。
「三年も帰ってこないのか?」
「予定ではそうです」
「そんなに長いのか」
「それぐらい学びませんと、身につきませんので」
三年ではない。私はもう二度とこの家に戻るつもりはなかった。
「お前、本当に行きたいのか?」
「はい。ずっと行きたかったんです」
「でも、急にどうして?」
「急にではありません。前から決めていました」
「俺には何も相談しなかっただろ」
「伯父様には相談しました」
「俺には?」
「……お兄様に相談する必要がありますか?」
サキートが黙った。
いつもなら私が何かを決める時には彼に相談していた。彼の意見を聞いて、彼が望むなら、それに従っていた。
けれどそれを変えた。
そのことにサキート自身も気づいたようだった。
「……お前、変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ」
サキートは私を見つめた。
その視線に、戸惑いのようなものが混じっている。まるで今までそこにあることが当然だったものが、突然なくなったことに気づいたような顔だった。
「私が自分で行きたいと決めたんです」
「そうか……」
サキートは視線を落とした。
「お前、俺のことを嫌いになったのか?」
「どうしてそうなるんです?」
「だって、前はいつも俺のそばにいただろ」
サキートは不思議そうに私を見た。
それが私には少しおかしかった。まるで私が彼のそばにいることが当然で、そこから離れる理由など存在しないと思っているようだった。
前世の私は確かにそうだった。いつもサキートを見ていた。そのあげく、あんな死に方をしてしまった。
いつも自分の後をついてきた私が、急に離れようとしていることに、サキートは理解できないのかもしれない。
絶望と孤独と飢え。サキートは私の恋心を踏みにじっただけでなく、私の人生そのものを徹底的に苛んだ。
「私はお兄様のそばにいるために生きているわけではありません」
「……誰かに何か言われたのか?」
「誰にも何も言われていません」
「ハビーバか?」
「違います」
「じゃあ、誰だ?」
「誰でもありません」
サキートは納得していないようだった。
「お前は昔から俺のことが好きだっただろ」
心臓が一度、大きく鳴った。
「子どもの頃の話です。今は違います」
「この間までそばにいたがってたのに?」
「はい」
「じゃあ、今は?」
私はサキートを見た。
その顔には怒りよりも戸惑いが浮かんでいた。どうしてそんなことを気にするのだろう。私はもう彼のために何かをするつもりはない。彼が望むことを先回りして考えることもしない。なのに彼はそれが理解できないようだった。
「今は家族として敬愛しております。他に思うところはありません」
思ってないどころか憎んでる。顔も見たくない。
サキートの顔から表情が消えた。
「嘘だろ」
「嘘ではありません」
「だって、お前は……」
「お兄様」
私は遮った。
なんだろう。こんな人だったの?
近寄ればさりげなく避けるくせに、去ろうとすると追いかけてくる。
そんな彼に、私はうんざりしていた。
「私は留学します。ここを出て新しい場所で暮らします」
やがて、外から馬車を呼ぶ声が聞こえた。
「もう行きますね」
「ああ……」
私は部屋を出た。玄関には伯父とハビーバが待っていた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「はい」
ハビーバが私の手を握った。
「向こうから手紙をくださいね」
「もちろんです」
「楽しみにしているわ」
私は笑った。
馬車に乗り込み、窓から屋敷を見る。サキートは少し離れたところに立っていた。
こちらを見ている。私は小さく頭を下げた。
馬車が動き出す。屋敷が少しずつ遠ざかっていく。私は窓の外を眺めながら、胸の奥で呟いた。
――さようなら。
今度こそ貴方から離れて心穏やかに暮らしたい。




