第一話 燃やしてしまおう
一話ずつ上げていきます。
目を開けた瞬間、私は自分がどこにいるのか分からなかった。かすんでいた室内の輪郭が次第に焦点を結んでいくと、驚きのあまり飛び起きた。
荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見回す。見慣れた部屋。開け放たれた窓から光が差し込み、風がカーテンを軽やかに揺らしていた。窓辺のソファーには小鳥の絵柄の入ったクッション、壁には刺繍が掛けられてあった。
どれも覚えている。けれど、もう見ることのないと思っていたものばかりだった。追い出される前の、まだ幸せだった頃の部屋だったから。
震える手で頬に触れる。ふっくらと柔らかかった。その指先にも力が入る。
ゆっくりとベッドから降り、鏡の前へ立った。そこに映っていたのはまだ結婚前の、少女の頃の自分だった。
思わず鏡の縁を掴むと冷たかった。
夢ではないと思った。
しばらくそのまま立ち尽くしていたが、廊下から聞こえてきた声に我に返った。若い男女の言い争う声が聞こえてくる。聞き覚えがある。私は扉を開けた。
廊下の先。玄関ホールの方から聞こえてくる。足が勝手に動いた。
階段の途中まで下りたところで、声の主が見えた。
サキートだった。そしてハビーバもいる。
胸の奥が重く沈む。
間違いない。あの日だ。全てが狂い始めた日。
「もういいわ」
ハビーバが唇を噛んだ。
「あなたとは話にならないわ。お別れね」
「勝手にしろ」
「そうします」
ハビーバはそう言って出て行った。
サキートは追いかけようとしない。
前と同じだった。このあと兄は酒をあおり、酩酊していく。
そして――。
私はあわてて踵を返した。階段を駆けるように登っていく。心臓がどくどくとうるさい。
急がなければ。
急がなければ。
机の引き出しを開ける。
その一番奥。
赤い布に包んで隠していた花模様のノートを取り出した。私を死なせた日記帳だった。
表紙を開く。
そこには見慣れた文字が並んでいた。
『お兄様が帰ってくると嬉しい』
『お兄様に褒められた』
『いつか隣に並べたら幸せ』
ぱたん、と閉じる。
これ以上、読み返す気にはなれなかった。
今の自分には辛すぎる。何も知らなかった頃の、愚かな自分の想いが綴られたもの。
私は暖炉の前にしゃがみ込んだ。
もう春だが、この日は肌寒く、火が起こされていた。
火かき棒で熾火を整える。
紙を一枚破った。炎の先へと落とす。端が黒くなり、赤く縮れていく。
それを見届けてから、日記帳を炎へ放り込んだ。
紙が燃える匂いが広がる。
何冊かを投げ込んだ頃、不意に涙がこぼれた。慌てて拭う。泣くつもりはなかった。けれど、少しだけ寂しかった。
十年以上抱えていた、告げることのない思いだった。だからせめて紙に書き記したかった。その気持ちを今、自分の手で燃やしている。胸が痛まないはずがなかった。でも。
「これでいい」
誰に言うでもなく呟く。
最後の一冊を火へ落とした。やがて全てが燃え尽き、灰だけ残った。
そう、これでいいのよ。
前世で失敗したのは兄を愛したからではない。兄だけを見て、自分の人生を見ていなかったからだ。
私は生きていたい。
暖炉の火を見つめていると、扉が叩かれた。
「アーイシャ様?」
侍女の声だった。
「どうしたの?」
「旦那様がお呼びです」
私は目を閉じた。
旦那様というのは伯父だ。私は両親を同時に失い、父の兄に引き取られていた。彼はまだ生きている。まだ何も失われていない。
「今行くわ」
立ち上がりながら返事をする。部屋を出る前にもう一度だけ暖炉を振り返った。
もう何も残っていなかった。




