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お兄様を愛さない人生  作者: 雛雪


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2/8

第一話 燃やしてしまおう

一話ずつ上げていきます。

 目を開けた瞬間、私は自分がどこにいるのか分からなかった。かすんでいた室内の輪郭が次第に焦点を結んでいくと、驚きのあまり飛び起きた。


 荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見回す。見慣れた部屋。開け放たれた窓から光が差し込み、風がカーテンを軽やかに揺らしていた。窓辺のソファーには小鳥の絵柄の入ったクッション、壁には刺繍が掛けられてあった。

どれも覚えている。けれど、もう見ることのないと思っていたものばかりだった。追い出される前の、まだ幸せだった頃の部屋だったから。


 震える手で頬に触れる。ふっくらと柔らかかった。その指先にも力が入る。

 ゆっくりとベッドから降り、鏡の前へ立った。そこに映っていたのはまだ結婚前の、少女の頃の自分だった。

 思わず鏡の縁を掴むと冷たかった。

夢ではないと思った。


 しばらくそのまま立ち尽くしていたが、廊下から聞こえてきた声に我に返った。若い男女の言い争う声が聞こえてくる。聞き覚えがある。私は扉を開けた。


 廊下の先。玄関ホールの方から聞こえてくる。足が勝手に動いた。

 階段の途中まで下りたところで、声の主が見えた。

 サキートだった。そしてハビーバもいる。


 胸の奥が重く沈む。

間違いない。あの日だ。全てが狂い始めた日。


「もういいわ」

 ハビーバが唇を噛んだ。

「あなたとは話にならないわ。お別れね」

「勝手にしろ」

「そうします」

 ハビーバはそう言って出て行った。

 サキートは追いかけようとしない。


 前と同じだった。このあと兄は酒をあおり、酩酊していく。


 そして――。


 私はあわてて踵を返した。階段を駆けるように登っていく。心臓がどくどくとうるさい。


 急がなければ。

 急がなければ。


 机の引き出しを開ける。

 その一番奥。

 赤い布に包んで隠していた花模様のノートを取り出した。私を死なせた日記帳だった。

 

表紙を開く。

 そこには見慣れた文字が並んでいた。

『お兄様が帰ってくると嬉しい』

『お兄様に褒められた』

『いつか隣に並べたら幸せ』


 ぱたん、と閉じる。

 これ以上、読み返す気にはなれなかった。

 今の自分には辛すぎる。何も知らなかった頃の、愚かな自分の想いが綴られたもの。


 私は暖炉の前にしゃがみ込んだ。

 もう春だが、この日は肌寒く、火が起こされていた。

火かき棒で熾火を整える。

 紙を一枚破った。炎の先へと落とす。端が黒くなり、赤く縮れていく。

 それを見届けてから、日記帳を炎へ放り込んだ。

 紙が燃える匂いが広がる。

 何冊かを投げ込んだ頃、不意に涙がこぼれた。慌てて拭う。泣くつもりはなかった。けれど、少しだけ寂しかった。

 十年以上抱えていた、告げることのない思いだった。だからせめて紙に書き記したかった。その気持ちを今、自分の手で燃やしている。胸が痛まないはずがなかった。でも。


「これでいい」

 誰に言うでもなく呟く。

最後の一冊を火へ落とした。やがて全てが燃え尽き、灰だけ残った。


 そう、これでいいのよ。

 前世で失敗したのは兄を愛したからではない。兄だけを見て、自分の人生を見ていなかったからだ。


私は生きていたい。

 

 暖炉の火を見つめていると、扉が叩かれた。

「アーイシャ様?」

 侍女の声だった。

「どうしたの?」

「旦那様がお呼びです」


 私は目を閉じた。

 旦那様というのは伯父だ。私は両親を同時に失い、父の兄に引き取られていた。彼はまだ生きている。まだ何も失われていない。


「今行くわ」

 立ち上がりながら返事をする。部屋を出る前にもう一度だけ暖炉を振り返った。


 もう何も残っていなかった。


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