プロローグ
全8話です。よくある話をさくっと読める感じにしました。
夫に追い出された日のことを、私はよく覚えている。
屋敷の庭にはまだ雪が残り、吐く息は白かった。夫は外套一枚さえ持たせてくれず、「出て行け」と、その一言だけで私を屋敷の外へ叩き出した。
初めは何が起こったのか分からず戸惑った。
私がリビングにいると、夫は私の私室から出て来るなり、いきなり私の頬を打ってきたのだ。よろけた私は床に膝をつき、痛む頬を押さえながら、夫を見上げた。
ーーなぜ、私の部屋から?
「お兄様……」
「その呼び方はやめろ!」
夫はかつては兄と呼び慕っていた従兄だった。
――夫、サキートの目は冷え切っていて、私がかつて一度も向けられたことのない目だった。
「お前の顔を見るだけで腹が立つ。出て行け」
胸がぎゅっと痛んだ。結婚して三年。夫婦になってから一度も幸せだったとは言えない。それでも、それなりに上手くやれていると思っていた。
「どうして……」
「まだわからないのか?」
サキートは数冊のノートを投げてきた。
「これは……」
見覚えのある赤い花模様のノート。
血の気が引いた。
それは引き出しの奥に鍵を掛けて閉まっていた……私の日記帳だった。
開かれたページには愛の言葉が並んでいた。
――お兄様が好き。
――お兄様のお嫁さんになれたらいいのに。
――ずっとそばにいたい。
幼い頃から秘めていた想い。誰にも見せるつもりのなかった私の気持ち。
それをサキートは読んでしまった。
「気持ち悪い」
ぽつりと落とされた言葉が、刃のように私の心を切り裂いた。
「お兄……、サキート様……」
「黙れ」
サキートは荒々しく私の腕をつかんで引っ張った。
「ハビーバがどんな気持ちで死んだかわかるか?」
その名前を聞いて私は目を伏せた。
ーーハビーバ。サキートが愛した人。
本来なら彼の横にいたはずの女性。
「お前さえいなければ!」
サキートの声が震えていた。
「俺はハビーバと結婚していた」
「違う、私のせいじゃない…」
ーーいや、そうかもしれない。
サキートを私が兄と呼んでた頃、彼には恋人がいた。
ある日、何が原因だったのかは分からないが、ハビーバとの口論の末、サキートはひどく酔っ払い、そして近くにいた私に手を出した。私が抵抗しても彼はやめなかった。
私は初めてだった。責任を取って結婚すると言われた時はほのかに嬉しかった。
「違わない!お前が仕組んだんだろ? 俺にそうさせるようにしたんだ」
机が倒れ花瓶が割れ、花が散った。使用人たちは誰もサキートを止めようとしない。皆、主人の顔色を窺っている。
「ハビーバの叔母上から聞いた」
サキートは苦しそうに息を吐いた。
「俺との婚約が破談になってから、あいつはずっと気を病んでたそうだ」
「それは……違います」
「お前のせいだ」
私は首を振った。
そこは違う。
ハビーバとは結婚後、私は一度会っていた。その時に、彼女は治らない病気を患い、長くは生きられないのだと言った。
だが彼は聞こうとしない。
「出て行け」
「私の話も聞いてください。お願いです」
「二度と言わせるな」
サキートは背を向けた。
「お前には何も渡さない。身一つで出て行け」
それで終わりだった。私は屋敷から追い出された。
幼い頃から家族だった人は最後までこちらを見ようとしなかった。本当の兄弟ではなかったけど、それでも家族だった。そして誰よりも信じて、誰よりも好きだった。だからこそ苦しかった。
屋敷を追われてから、私の生活は急速に崩れていった。平民となり、紹介状もなく仕事を探すのは難しかった。それでもなんとか見つけた洗濯女の仕事も、ある日いきなり、「もう来ないでくれるか」と首を切られた。
誰かが先回りしているようだった。誰がそうしているのか考えなくてもわかった。
春が来る頃には私は路上で客を引き、身を売るようになっていた。
夏が来る頃には三日に一度の食事になり、
秋が来る頃には自分の足で立つことさえ難しくなった。
そして冬。冷たい小屋の片隅で破れた毛布一枚で横たわり、誰にも看取られず死んでいった。
骨と皮だけになった腕は激しく震え、指先ももう思うように動かせない。
ぼやけ始めた視界が、やがて何も映さなくなっていく。
ふと幼い頃の私とサキートの笑い合う声が聴こえた気がした。
不思議と痛みはなかった。
悲しみももう遥か遠く、今はただ眠りたいだけ。
……ただ、ただ少しだけ。
もし、もう一度やり直せたなら。
夫をーーサキートを愛さない人生を歩みたい。
そう願いながら、私は静かに目を閉じた。
――そして次に目を開けた時。
十七歳の春に戻っていた。




