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お兄様を愛さない人生  作者: 雛雪


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1/8

プロローグ

全8話です。よくある話をさくっと読める感じにしました。

 夫に追い出された日のことを、私はよく覚えている。

 屋敷の庭にはまだ雪が残り、吐く息は白かった。夫は外套一枚さえ持たせてくれず、「出て行け」と、その一言だけで私を屋敷の外へ叩き出した。


 初めは何が起こったのか分からず戸惑った。

 私がリビングにいると、夫は私の私室から出て来るなり、いきなり私の頬を打ってきたのだ。よろけた私は床に膝をつき、痛む頬を押さえながら、夫を見上げた。

 ーーなぜ、私の部屋から?


「お兄様……」

「その呼び方はやめろ!」

 夫はかつては兄と呼び慕っていた従兄だった。

――夫、サキートの目は冷え切っていて、私がかつて一度も向けられたことのない目だった。


「お前の顔を見るだけで腹が立つ。出て行け」

 胸がぎゅっと痛んだ。結婚して三年。夫婦になってから一度も幸せだったとは言えない。それでも、それなりに上手くやれていると思っていた。


「どうして……」

「まだわからないのか?」

 サキートは数冊のノートを投げてきた。

「これは……」

 見覚えのある赤い花模様のノート。

 血の気が引いた。

 それは引き出しの奥に鍵を掛けて閉まっていた……私の日記帳だった。

 

 開かれたページには愛の言葉が並んでいた。

 ――お兄様が好き。

 ――お兄様のお嫁さんになれたらいいのに。

 ――ずっとそばにいたい。


 幼い頃から秘めていた想い。誰にも見せるつもりのなかった私の気持ち。

 それをサキートは読んでしまった。


「気持ち悪い」

 ぽつりと落とされた言葉が、刃のように私の心を切り裂いた。

「お兄……、サキート様……」

「黙れ」

 サキートは荒々しく私の腕をつかんで引っ張った。

「ハビーバがどんな気持ちで死んだかわかるか?」

 

 その名前を聞いて私は目を伏せた。

 ーーハビーバ。サキートが愛した人。

 本来なら彼の横にいたはずの女性。

「お前さえいなければ!」

 サキートの声が震えていた。

「俺はハビーバと結婚していた」

「違う、私のせいじゃない…」

 ーーいや、そうかもしれない。

 サキートを私が兄と呼んでた頃、彼には恋人がいた。

 ある日、何が原因だったのかは分からないが、ハビーバとの口論の末、サキートはひどく酔っ払い、そして近くにいた私に手を出した。私が抵抗しても彼はやめなかった。

私は初めてだった。責任を取って結婚すると言われた時はほのかに嬉しかった。


「違わない!お前が仕組んだんだろ? 俺にそうさせるようにしたんだ」

 机が倒れ花瓶が割れ、花が散った。使用人たちは誰もサキートを止めようとしない。皆、主人の顔色を窺っている。


「ハビーバの叔母上から聞いた」

 サキートは苦しそうに息を吐いた。

「俺との婚約が破談になってから、あいつはずっと気を病んでたそうだ」

「それは……違います」

「お前のせいだ」

 私は首を振った。

 そこは違う。

 ハビーバとは結婚後、私は一度会っていた。その時に、彼女は治らない病気を患い、長くは生きられないのだと言った。

 だが彼は聞こうとしない。

「出て行け」

「私の話も聞いてください。お願いです」

「二度と言わせるな」

 サキートは背を向けた。

「お前には何も渡さない。身一つで出て行け」

 それで終わりだった。私は屋敷から追い出された。

 幼い頃から家族だった人は最後までこちらを見ようとしなかった。本当の兄弟ではなかったけど、それでも家族だった。そして誰よりも信じて、誰よりも好きだった。だからこそ苦しかった。


 屋敷を追われてから、私の生活は急速に崩れていった。平民となり、紹介状もなく仕事を探すのは難しかった。それでもなんとか見つけた洗濯女の仕事も、ある日いきなり、「もう来ないでくれるか」と首を切られた。

 誰かが先回りしているようだった。誰がそうしているのか考えなくてもわかった。

 

春が来る頃には私は路上で客を引き、身を売るようになっていた。

 夏が来る頃には三日に一度の食事になり、

 秋が来る頃には自分の足で立つことさえ難しくなった。

 そして冬。冷たい小屋の片隅で破れた毛布一枚で横たわり、誰にも看取られず死んでいった。


 骨と皮だけになった腕は激しく震え、指先ももう思うように動かせない。

 ぼやけ始めた視界が、やがて何も映さなくなっていく。

ふと幼い頃の私とサキートの笑い合う声が聴こえた気がした。


 不思議と痛みはなかった。

 悲しみももう遥か遠く、今はただ眠りたいだけ。

 

 ……ただ、ただ少しだけ。

 もし、もう一度やり直せたなら。

 夫をーーサキートを愛さない人生を歩みたい。


 そう願いながら、私は静かに目を閉じた。




 ――そして次に目を開けた時。

 十七歳の春に戻っていた。

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