第9話 最後の請求書
第9話 最後の請求書
その日の王都は朝から曇っていた。
分厚い雲が空を覆い、まるで王国の未来そのものを映しているようだった。
王宮の廊下には以前のような活気がない。
侍女たちの姿も減った。
衛兵たちの足音も重い。
かつては絢爛豪華だった王宮は、今や疲れ切った老人のようだった。
国王レオンハルトは執務室で頭を抱えていた。
机の上には未払い請求書の山。
借入申請書。
督促状。
契約解除通知。
赤字報告。
どれも見たくないものばかりだ。
「また断られたのか」
力なく尋ねる。
財務官は青白い顔で頷いた。
「はい」
「どこだ」
「王都中央銀行です」
レオンハルトは目を閉じた。
最後の希望だった。
そこにまで断られた。
「理由は」
「返済能力に疑問があるとのことです」
財務官は俯いた。
もう誰も王宮を信用していない。
それが現実だった。
その時、扉が開いた。
ミレーユが飛び込んでくる。
だが以前のような華やかさはない。
高価なドレスは手に入らず、今着ているのも数か月前のものだ。
「王様!」
「何だ」
「離宮の改装工事が止まりました!」
レオンハルトは額を押さえた。
「またか」
「またじゃありません!」
ミレーユは叫ぶ。
「壁紙も途中です!」
「そうか」
「家具も届きません!」
「そうか」
「庭園工事も止まりました!」
「そうか」
反応が薄い。
ミレーユは唖然とした。
以前ならすぐ怒鳴り、誰かに命令していたのに。
今のレオンハルトにはその気力すら残っていなかった。
財務官が小さく咳払いする。
「陛下」
「何だ」
「三大公爵家から正式な勧告が届いております」
レオンハルトは嫌な予感を覚えた。
「内容は」
「王妃殿下への謝罪です」
沈黙。
ミレーユの顔が歪む。
「謝罪ですって?」
「現状を打開するには、それしかないとの結論です」
財務官は続けた。
「商業ギルドも同意しております」
「……」
「銀行も同意しております」
「……」
「貴族会議も同意しております」
つまり。
王国中が同じ結論に達していた。
エレノアしかいない。
レオンハルトは椅子から立ち上がる。
「馬車を用意しろ」
財務官が目を見開く。
「陛下?」
「レイヴン公爵領へ行く」
その声には疲労が滲んでいた。
数日後。
レイヴン公爵領。
青空が広がり、夏の花が咲き誇っていた。
市場には笑顔があり、人々は忙しく働いている。
王都とは別世界だった。
レオンハルトは馬車の窓からその光景を見つめる。
胸が痛んだ。
かつて王国全体がこうだった。
それを失ったのは誰だ。
答えは分かっていた。
財務顧問会の建物に到着すると、受付係が丁寧に頭を下げた。
「ご用件をお伺いいたします」
「余は国王だ」
「存じております」
「エレノアに会わせろ」
受付係は微笑んだ。
「申し訳ございません」
「何?」
「エレノア様はお会いになりません」
レオンハルトは絶句した。
「余だぞ」
「存じております」
「国王だぞ」
「存じております」
だが答えは変わらない。
会えない。
その時だった。
二階の階段から男性が降りてくる。
アレクシスだった。
深い紺色の上着を着た彼は、余裕の笑みを浮かべている。
「遠路ご苦労様です」
レオンハルトの眉が動く。
「貴様か」
「エレノア様からお預かりした物があります」
アレクシスは一通の封筒を差し出した。
厚い。
異様に厚い。
「何だ」
「最後の請求書です」
沈黙。
レオンハルトは封を切った。
中から出てきたのは膨大な書類だった。
暖房費。
厨房運営費。
外交費。
孤児院支援金。
侍女給与補填。
医薬品購入費。
修繕費。
十年間に及ぶ支出記録。
領収書。
契約書。
証明書。
全て揃っている。
そして最後のページ。
合計金額を見た瞬間。
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
「……嘘だ」
震える声が漏れる。
「嘘ではありません」
アレクシスが静かに答えた。
「全て確認済みです」
桁数がおかしかった。
王宮の年間予算に匹敵する額。
いや。
それ以上だった。
ミレーユが覗き込み、悲鳴を上げる。
「こんなの払えるわけありません!」
「そうでしょうね」
アレクシスは淡々としている。
「ですが債務は債務です」
「ふざけるな!」
レオンハルトが叫んだ。
「王妃だぞ!」
「元王妃です」
即座に返された。
そして続ける。
「それに」
アレクシスの目が細くなる。
「陛下は王妃だから当然だと思っていたのでしょう」
言葉が刺さる。
「ですが当然ではありません」
「……」
「善意です」
レオンハルトは何も言えなかった。
善意。
その通りだった。
エレノアは義務以上のことをしていた。
国のために。
王宮のために。
自分のために。
そして自分は。
それを当然だと思っていた。
建物の二階。
窓辺に立つエレノアは遠くを見ていた。
レオンハルトの姿が小さく見える。
だが彼女は下へ行かなかった。
もう終わったのだ。
過去は過去だった。
ヴィクトルが静かに尋ねる。
「後悔はございますか」
エレノアは少し考えた。
そして首を振る。
「ありません」
窓から吹き込む風が心地よい。
遠くで鐘が鳴る。
市場から笑い声が聞こえる。
ここには未来がある。
一方、王宮には請求書だけが残った。
レオンハルトは震える手で最後のページを見つめていた。
その数字は。
王国が失ったものの大きさを示していたのである。




