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第10話 新しい帳簿

第10話 新しい帳簿


 秋の風がレイヴン公爵領を優しく吹き抜けていた。


 麦の収穫は終わり、果樹園では赤く色づいた林檎が枝を重たそうに揺らしている。


 空は高く澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れていた。


 エレノアは窓辺に立ち、その景色を眺めていた。


 王宮を去って半年。


 人生は驚くほど変わっていた。


 朝から晩まで働いているのは以前と同じだ。


 だが疲れ方が違う。


 理不尽に穴を埋める仕事ではない。


 人を豊かにするための仕事だった。


 執務室の扉が開く。


 カミーユが飛び込んできた。


 興奮で頬が赤い。


「エレノア様!」


「どうしました?」


「王都から速報です!」


 エレノアは椅子へ腰掛ける。


 嫌な予感はしなかった。


 むしろ、とうとう来たかという気持ちだった。


 カミーユは息を整える。


「国王レオンハルト陛下が正式に廃位されました」


 室内が静かになった。


 ヴィクトルが目を閉じる。


 老会計士ベルトランもため息をついた。


「そうですか」


 エレノアは静かに呟いた。


 驚きはなかった。


 三大公爵家。


 商業ギルド。


 銀行。


 貴族会議。


 すべてが国王を見限っていた。


 当然の結果だった。


「ミレーユ様も追放です」


「どちらへ?」


「男爵家へ戻されました」


 カミーユが答える。


「離宮改装費や宝飾品購入費の責任も問われています」


 エレノアは小さく頷いた。


 ミレーユを憎んではいない。


 彼女はただ、自分が何も知らないことすら知らなかっただけだ。


 もっと早く学んでいれば違った未来もあっただろう。


 しかし、もう終わった話だった。


 昼食の時間になった。


 長いテーブルには料理が並ぶ。


 香草をまぶしたローストチキン。


 焼き立ての白パン。


 かぼちゃのポタージュ。


 林檎と胡桃のサラダ。


 蜂蜜をかけた焼き梨。


 窓からは金色の陽光が差し込み、料理の湯気がゆらゆらと揺れていた。


「平和ですねえ」


 ロイドが呟く。


「本当に」


 カミーユも笑う。


「王宮にいた頃は昼食中に呼び出されるのが普通でした」


「ありましたな」


 ヴィクトルも懐かしそうに頷いた。


 皆で笑い合う。


 その時だった。


 受付係が慌ててやって来る。


「エレノア様」


「はい?」


「ルクセリア大公閣下がお見えです」


 室内に微妙な空気が流れた。


 カミーユがにやりと笑う。


 ロイドも笑いをこらえている。


 ヴィクトルはわざとらしく咳払いした。


「仕事の話でしょうな」


「きっと仕事ですね」


「もちろん仕事です」


 全員が同時に言った。


 そして全員が笑った。


 数分後。


 応接室。


 アレクシスはいつものように優雅だった。


 深緑の上着をまとい、窓辺に立っている。


 秋の陽光が金色の髪を照らしていた。


「お忙しいところ申し訳ありません」


「本当にそう思っています?」


 エレノアが尋ねる。


 アレクシスは笑った。


「少しだけ」


 二人は向かい合って座る。


 紅茶の香りが部屋に広がった。


 しばらく仕事の話をする。


 新しい交易路。


 港湾整備。


 税制改革。


 いつもの話題だった。


 だが今日のアレクシスはどこか落ち着かない。


 珍しいことだった。


 そして話が終わった頃。


 彼は真面目な顔になった。


「エレノア」


「はい」


「正式にお願いがあります」


 エレノアは少し首を傾げた。


「何でしょう」


 アレクシスは一枚の書類を取り出した。


 だが契約書ではなかった。


 事業計画書でもない。


 結婚申込書だった。


 エレノアは固まる。


 数秒。


 本当に数秒。


 思考が止まった。


「え?」


「結婚してください」


 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


 アレクシスは続ける。


「あなたの知識を尊敬しています」


「……」


「働き方も尊敬しています」


「……」


「人柄も尊敬しています」


 その目に嘘はなかった。


 王妃だからではない。


 公爵令嬢だからでもない。


 エレノアという人間を見ている。


 それが分かった。


 胸の奥が温かくなる。


 王宮では一度も感じたことのない感情だった。


「私は」


 エレノアはゆっくり口を開く。


「仕事人間ですよ?」


「知っています」


「帳簿ばかり見ていますよ?」


「知っています」


「休日も仕事をしていますよ?」


「知っています」


「面白くありませんよ?」


 アレクシスは笑った。


「それは違います」


 そして優しく言った。


「あなたほど面白い人を私は知りません」


 エレノアは思わず笑ってしまった。


 気付けば涙が滲んでいる。


 悲しい涙ではない。


 嬉しい涙だった。


「……はい」


 小さく答える。


「よろしくお願いいたします」


 窓の外で風が吹いた。


 林檎の葉が揺れる。


 遠くで鐘が鳴った。


 それは新しい人生の始まりを祝福しているようだった。


 数か月後。


 エレノアはルクセリアで新たな財政改革を始める。


 その隣にはアレクシスがいた。


 一人で全てを背負う必要はない。


 困った時は相談できる。


 支え合える。


 そんな相手だった。


 ある日の夕暮れ。


 執務室でエレノアは新しい帳簿を開く。


 真新しい革表紙。


 真っ白な最初のページ。


 かつての彼女なら国庫収支を書いただろう。


 税収予測を書いただろう。


 だが今は違う。


 ペンを取り、静かに文字を書く。


 ――幸せな家庭。


 ――信頼できる仲間。


 ――豊かな国。


 ――穏やかな未来。


 そして最後に小さく付け加えた。


 ――私自身の幸せ。


 白紙だった未来は、もう白紙ではない。


 そこには確かに、彼女自身の意志で描かれた未来が広がっていた。


 新しい帳簿は、今日から始まる。


 今度こそ誰かのためだけではなく、自分自身の人生を記録するために。



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