第11話 最初の時給、3クローネの衝撃
第11話 最初の時給、3クローネの衝撃
海風は思った以上に冷たかった。
まだ夜明け前だというのに、港にはすでに大勢の人が集まっている。潮の匂いと魚の生臭さが入り混じり、波が岸壁を叩く音が絶えず響いていた。
レオンハルトは粗末な麻の上着の襟を握りしめた。
かつて王だった男の服とは思えない。
色あせた茶色のシャツ。
膝に継ぎ当てのあるズボン。
泥だらけの革靴。
鏡で見た自分の姿に、自分でも驚いた。
「おい、新入り!」
怒鳴り声が飛ぶ。
筋骨隆々の荷役監督だった。
「ぼさっとするな! 船が着くぞ!」
「……ああ」
「返事は『はい』だ!」
「はい」
レオンハルトは慌てて答えた。
周囲の男たちが笑う。
「貴族様みてえな喋り方だな」
「手ぇ見ろよ。全然働いたことねえ手だ」
「三日持たねえな」
嘲笑が飛ぶ。
だが言い返せなかった。
事実だったからだ。
船が到着する。
大きな帆船だった。
積み荷の木箱が次々と下ろされる。
「運べ!」
監督の声。
レオンハルトは木箱を持ち上げようとした。
しかし。
「ぐっ……!」
重い。
想像以上だった。
肩に食い込む。
腕が震える。
腰が悲鳴を上げる。
「何してる!」
後ろから怒鳴られた。
「邪魔だ!」
別の労働者に押しのけられる。
男は軽々と木箱を担いで歩いていった。
レオンハルトは呆然とする。
なぜ持てる。
なぜ歩ける。
こんな重いものを。
だが彼らは平然としていた。
それが仕事だからだ。
朝が過ぎる。
昼が来る。
そして午後。
レオンハルトの肩は真っ赤に腫れ上がっていた。
手のひらには血豆。
腰は曲がり。
足は鉛のように重い。
休憩時間。
彼は木箱に腰掛けた。
昼食は黒パンと薄い豆のスープだった。
パンは固い。
スープは塩気がほとんどない。
それでも労働者たちは黙々と食べている。
「兄ちゃん」
隣に座った白髪交じりの男が言った。
「初日か」
「ああ」
「きついだろ」
「……こんなものだとは思わなかった」
男は笑った。
「皆そう言う」
そして黒パンをちぎる。
「でも食わなきゃ働けねえ」
レオンハルトもパンを口に入れた。
固い。
口の中の水分を奪われる。
しかし腹が減っていた。
驚くほど美味しく感じた。
夕方。
ようやく仕事が終わる。
空は茜色に染まり、港の水面が黄金色に輝いていた。
レオンハルトは地面へ座り込む。
もう立ち上がる力もない。
その時。
監督が革袋を差し出した。
「ほら」
「何だ」
「日当だ」
レオンハルトは袋を開いた。
銀貨が数枚。
「三十クローネ」
監督が言う。
「新人だからな」
レオンハルトは固まった。
三十クローネ。
たったそれだけ。
朝から晩まで。
十時間以上働いて。
肩を痛め。
手を裂き。
腰を壊しそうになって。
三十クローネ。
監督は不思議そうな顔をする。
「どうした」
「これだけか」
「は?」
「いや……」
監督の顔が険しくなった。
「文句あるなら帰れ」
「違う!」
レオンハルトは慌てた。
「そういう意味じゃない」
監督は鼻を鳴らした。
「三十クローネでもありがたいんだ」
そう言って去っていく。
レオンハルトは銀貨を見つめた。
掌の上で冷たく光る。
三十クローネ。
たった三十。
だが。
その時だった。
脳裏に昔の光景が蘇る。
王宮の晩餐会。
豪華なシャンデリア。
山のような料理。
音楽隊。
花飾り。
高級ワイン。
そして請求額。
三万クローネ。
当時の彼は何とも思わなかった。
王の晩餐会なら当然だと。
だが今。
数字の意味が変わっていた。
三十クローネ。
一人が一日働いて得る金額。
三万クローネ。
その千倍。
千人分。
千人が汗を流し。
腰を痛め。
手を傷つけ。
命を削って働いた結果。
それが一晩で消えていた。
「……嘘だろ」
思わず呟く。
呼吸が苦しくなった。
胃が重い。
頭がくらくらする。
千人。
千人だ。
かつての自分は。
千人分の労働を。
何の疑問もなく消費していた。
しかも。
何度も。
何度も。
何度も。
夜の港を歩く。
海風が冷たい。
安宿へ戻る途中、小さな食堂の前で足が止まった。
香ばしい匂いが漂ってくる。
肉と玉ねぎを煮込む匂い。
腹が鳴った。
「いくらだ」
店主に尋ねる。
「煮込み定食なら十五クローネ」
レオンハルトは固まる。
十五クローネ。
日当の半分。
今朝なら安いと思っただろう。
だが今は違う。
その十五クローネを稼ぐために、自分がどれだけ苦労したか知っている。
結局。
彼は黒パンだけ買った。
五クローネ。
安宿へ戻る。
狭い部屋だった。
ベッドは軋む。
窓は隙間風だらけ。
だが眠る場所があるだけましだった。
レオンハルトは硬いベッドへ横になる。
肩が痛い。
腰が痛い。
腕が痛い。
全身が痛い。
だが、それ以上に胸が痛かった。
エレノアの顔が浮かぶ。
あの帳簿。
あの報告書。
あの決算書。
自分は一度も読まなかった。
一度も理解しようとしなかった。
だが今なら分かる。
数字は数字ではなかった。
誰かの時間だった。
誰かの人生だった。
誰かの労働だった。
暗い天井を見つめながら、レオンハルトは目を閉じた。
初めて稼いだ三十クローネ。
その重さは。
かつて頭に載せていた王冠よりも、はるかに重かった。




