第12話 神よ、私をその行くべき道に育て上げてください
第12話 神よ、私をその行くべき道に育て上げてください
港町の朝は早かった。
まだ空が薄紫色に染まる頃には、人々が仕事へ向かって歩き始める。
魚市場からは威勢の良い声が聞こえ、焼きたての黒パンの香りが石畳の通りを漂っていた。
レオンハルトは安宿の狭い部屋で目を覚ました。
肩が痛い。
腰も痛い。
腕も痛い。
港の荷役仕事を始めて一か月。
最初の頃より少しは慣れたが、体は毎日悲鳴を上げていた。
「……朝か」
窓の外を見る。
かつてなら侍従が起こしに来ていた時間だ。
今は違う。
自分で起きなければ仕事に遅れる。
遅れれば給料が減る。
単純な話だった。
身支度を整え、食堂へ降りる。
朝食は黒パンと薄い野菜スープ。
そして塩漬けの小魚が一匹。
豪華とは程遠い。
だが最近は、この温かいスープがありがたかった。
食堂の隅には年老いた宿屋の主人が座っている。
白髪混じりの温厚な男だった。
「おはようございます」
レオンハルトが頭を下げる。
昔なら考えられない行動だった。
主人は笑う。
「今日も仕事かい」
「はい」
「真面目だな」
「食べなければ生きていけませんから」
主人は少し驚いた顔をした。
そして頷いた。
「それが分かるだけでも立派なもんだ」
その言葉が胸に刺さった。
かつての自分は本当に何も知らなかった。
食べ物は自然に出てくるものだと思っていた。
服は自然に用意されるものだと思っていた。
暖炉は自然に燃えるものだと思っていた。
だが違った。
誰かが働いている。
誰かが朝早く起きている。
誰かが重い荷物を運んでいる。
その積み重ねだった。
その日の仕事を終えた夕方。
レオンハルトは港近くの小さな広場を歩いていた。
噴水の横では子供たちが遊んでいる。
その中の一人が転んだ。
まだ七歳くらいだろうか。
膝を擦りむき、泣きそうになっている。
すると母親らしい女性が駆け寄った。
「大丈夫?」
「うう……」
「立てる?」
女性は優しく手を差し伸べる。
子供は涙を拭きながら立ち上がった。
「えらいわ」
母親は微笑んだ。
「転んでもまた歩けばいいのよ」
その光景を見た瞬間だった。
レオンハルトの胸に、遠い記憶が蘇る。
幼い頃。
まだ王太子だった頃。
父王は厳しかった。
剣術。
乗馬。
礼儀作法。
だが一つだけ教えなかった。
働くこと。
数字の意味。
民の暮らし。
誰が国を支えているか。
それだけは誰も教えなかった。
いや。
教えようとした人はいた。
エレノアだった。
彼女は何度も帳簿を持ってきた。
何度も報告書を持ってきた。
何度も数字の意味を説明しようとした。
だが自分は聞かなかった。
聞こうとしなかった。
王だから必要ないと思っていた。
「私は……」
思わず呟く。
「何を学んできたんだ」
その夜。
安宿の部屋へ戻ったレオンハルトは珍しく眠れなかった。
窓から月明かりが差し込んでいる。
机の上には一冊の本があった。
宿屋の主人から借りた聖書だった。
彼は何気なくページをめくる。
すると、ある言葉が目に入った。
「少年を彼の行くべき道に沿って育てよ」
レオンハルトはその一文を見つめた。
何度も。
何度も。
読み返す。
「行くべき道……」
自分はその道を歩いてきただろうか。
違う。
歩いていない。
誰かが道を整えてくれていた。
エレノアが。
ヴィクトルが。
文官たちが。
商人たちが。
労働者たちが。
自分はその上を何も考えず歩いていただけだった。
胸が苦しくなる。
後悔だった。
今さら取り返せない。
今さら謝れない。
それでも。
初めて願うことがあった。
レオンハルトは窓を開けた。
夜風が入ってくる。
遠くで教会の鐘が鳴っていた。
星空を見上げる。
王だった頃は、願いなど持ったことがなかった。
命令すれば何でも手に入ったからだ。
だが今は違う。
初めて心から願う。
「神よ」
声が震えた。
「私は愚かでした」
静かな夜だった。
誰も聞いていない。
それでも言葉は止まらない。
「何も知りませんでした」
港で働く男たちの顔が浮かぶ。
汗だくで働く人々。
帳簿と格闘する商人。
家族を養う母親。
皆、自分より立派だった。
「どうか」
レオンハルトは目を閉じた。
「今からでも遅くないのなら」
胸の奥が熱くなる。
涙が頬を伝った。
「私を、その行くべき道に育て上げてください」
夜風が吹いた。
まるで誰かが優しく肩に手を置いたような気がした。
返事はない。
奇跡も起きない。
だが不思議と心は少し軽くなっていた。
明日も仕事だ。
荷物を運ぶ。
失敗するかもしれない。
怒鳴られるかもしれない。
それでもいい。
歩こう。
一歩ずつ。
転んでも。
遅くても。
今度こそ、自分の足で。
正しい道を。




