第13話 契約書の重さと、かつての自分のサイン
第13話 契約書の重さと、かつての自分のサイン
秋の冷たい雨が港町の屋根を叩いていた。
灰色の雲が低く垂れ込め、石畳には雨水が溜まっている。
レオンハルトは小さな商会の倉庫前に立っていた。
肩には雨除けの古びた外套。
革靴はすり減り、泥がこびり付いている。
港湾労働を始めて三か月。
しかし、その仕事は長く続かなかった。
腰を痛めたのだ。
重い荷物を運ぶたびに激痛が走る。
ある日ついに木箱を落とし、商品を壊してしまった。
「もう無理だな」
監督は申し訳なさそうに言った。
「お前は根性はあるが体が向いてねえ」
そうして職を失った。
だが運良く、港で知り合った商人の紹介で今の仕事に拾われたのである。
荷物の個数確認。
伝票照合。
下級検収係。
給料は安い。
だが雨風をしのげる。
それだけでありがたかった。
「レオン!」
怒鳴り声が飛ぶ。
商会の主人グスタフだった。
四十代半ばの男で、髭をたくわえた厳しい顔をしている。
「はい!」
「荷物確認だ!」
「承知しました」
レオンハルトは慌てて帳簿を抱えた。
倉庫へ入る。
木箱が山のように積まれていた。
香辛料。
布地。
砂糖。
陶器。
様々な商品である。
彼は一つ一つ番号を確認していく。
「三十七……三十八……三十九……」
雨音が屋根を叩く。
倉庫には木材の匂いと香辛料の香りが混ざっていた。
地味な仕事だ。
王だった頃なら絶対に見向きもしなかった。
だが今は違う。
これが仕事だった。
その時だった。
「待て」
グスタフが顔をしかめた。
「数が合わん」
「え?」
「伝票は百二十箱」
帳簿を指差す。
「だが現物は百十九だ」
レオンハルトは慌てて数え直した。
確かに足りない。
「一箱だけですよ」
思わず言った。
すると。
倉庫の空気が凍った。
グスタフの顔が恐ろしく険しくなる。
「一箱だけ?」
「は、はい」
「お前、それ本気で言ってるのか」
レオンハルトは黙った。
何かまずいことを言ったらしい。
グスタフは深く息を吐く。
「砂糖一箱で五十クローネだ」
「……」
「五十クローネ盗まれたらお前は平気か」
「平気ではありません」
「なら商会だって平気じゃない」
レオンハルトは言葉を失った。
五十クローネ。
今の彼には大金だった。
「しかも問題は金だけじゃない」
グスタフは帳簿を叩く。
「契約だ」
「契約?」
「百二十箱納品すると約束した」
「……」
「百十九しか届かないなら契約違反だ」
雷が鳴った。
窓の外が白く光る。
レオンハルトは初めて気付いた。
一箱。
たった一箱。
だがそれは数字ではなかった。
約束だった。
信用だった。
夕方。
不足していた荷物は別の場所で見つかった。
大事には至らなかった。
だがレオンハルトの胸は重かった。
帰宅途中。
冷たい雨が降っている。
安宿へ戻る足取りも重い。
食堂では夕食が出ていた。
野菜の煮込み。
黒パン。
少量の塩漬け肉。
以前なら犬も食べないと思っただろう。
今は違う。
温かい食事がありがたかった。
だが今日は味がしなかった。
部屋へ戻る。
小さな机。
軋む椅子。
薄い毛布。
窓から冷気が入り込んでくる。
レオンハルトは暗い部屋で一人座っていた。
蝋燭の火が揺れている。
その炎を見ていると。
突然。
昔の光景が蘇った。
王宮執務室。
エレノアが書類を抱えて立っている。
「陛下、こちらの契約更新書です」
「ああ」
「内容をご確認ください」
「後で見る」
「重要な案件です」
「置いておけ」
そして。
彼は見なかった。
読まなかった。
理解しなかった。
ただ署名した。
何十枚も。
何百枚も。
機械のように。
エレノアが説明しても聞かなかった。
「面倒だ」
「細かい」
「お前に任せる」
そう言い続けていた。
レオンハルトの手が震え始める。
「私は……」
声が掠れた。
契約書。
数字。
帳簿。
全部軽視していた。
だが今なら分かる。
一箱足りないだけで問題になる。
一行間違えるだけで損失が出る。
一つの数字が狂うだけで人が困る。
なのに自分は。
国家規模の契約を。
国民の税金を。
何も見ずに署名していた。
背筋が寒くなる。
あまりにも恐ろしい。
無知だった。
怠慢だった。
そして傲慢だった。
「エレノア……」
思わず名前が漏れる。
彼女は何度も教えようとしていた。
何度も。
何度も。
何度も。
だが自分は拒んだ。
窓の外で雨が強くなる。
冷たい風が吹き込む。
レオンハルトは両手で顔を覆った。
震えが止まらない。
寒さではない。
恐怖だった。
自分がどれほど危険な王だったのか。
今になって理解してしまったのだ。
蝋燭の火が小さく揺れる。
机の上には今日使った伝票が置かれていた。
たった一枚の紙。
だがその重さは、かつて王冠よりも軽いと思っていたものだった。
今は違う。
レオンハルトは震える手で伝票を手に取る。
そして静かに呟いた。
「契約書とは……こんなにも重いものだったのか」
誰も答えない。
だがその夜。
彼は生まれて初めて、数字の向こうにいる人々の存在を見た気がした。




