第14話 帳簿の向こうに見えるエレノアの背中
第14話 帳簿の向こうに見えるエレノアの背中
冬の気配が港町に降り始めていた。
朝の空気は冷たく、吐く息が白い。
レオンハルトはまだ暗いうちから商会へ向かっていた。
厚手の灰色の外套を着ているが、風は容赦なく首筋へ入り込む。
石畳には霜が降りていた。
かつて王宮では暖炉の火が絶えることはなかった。
朝になれば温かい紅茶が運ばれ、厚手の絨毯が足元を守っていた。
今は違う。
だが不思議と、その違いに文句を言う気持ちはなかった。
商会へ到着すると、帳簿係たちがすでに働いている。
机の上には書類の山。
インク壺。
計算板。
伝票。
請求書。
領収書。
数字。
数字。
数字。
レオンハルトは席についた。
そして深く息を吐く。
「今日も戦争だな」
隣の席の老人が笑った。
商会筆頭帳簿係のマルクだった。
「その表現は間違ってない」
「そんなに大変なのですか」
「帳簿は毎日戦争だ」
老人は肩をすくめる。
「数字は嘘をつかんからな」
レオンハルトは苦笑した。
それは最近痛いほど理解していた。
午前中。
彼は輸入香辛料の帳簿整理を任された。
胡椒。
シナモン。
クローブ。
輸入価格。
運送料。
保険料。
関税。
保管費。
販売価格。
利益率。
数字が延々と続いている。
レオンハルトの頭はすぐに混乱した。
「なぜだ……」
彼は額を押さえた。
「売値から仕入れ値を引けば利益ではないのか」
するとマルクが吹き出した。
「違う」
「違うのか」
「輸送費は?」
「……」
「保管費は?」
「……」
「人件費は?」
「……」
「税金は?」
レオンハルトは黙り込んだ。
マルクは紙を引き寄せる。
「ほら見ろ」
数字を書いていく。
売上百クローネ。
仕入れ七十クローネ。
一見三十クローネの利益。
だが。
輸送費五。
保管費三。
人件費十。
税金五。
利益は七。
たった七だった。
レオンハルトは絶句した。
「こんなに残らないのか」
「商売ってのはそういうもんだ」
老人は笑う。
「だから皆必死なんだよ」
昼食。
商会の食堂では温かい豆の煮込みが出た。
黒パン。
玉ねぎのスープ。
燻製肉が少し。
豪華ではない。
だが湯気が立っている。
冷えた体にはありがたかった。
食事をしながらも帳簿係たちは数字の話をしている。
「小麦の相場が上がった」
「港湾税も変わるらしい」
「今年は利益が厳しいな」
レオンハルトは耳を傾ける。
王だった頃なら退屈だと思っただろう。
今は違う。
彼らは真剣だった。
生活がかかっている。
家族がかかっている。
だから数字に真剣なのだ。
午後。
事件は起きた。
「レオン!」
店主グスタフの怒鳴り声が響く。
商会中が静まり返った。
「ここへ来い!」
レオンハルトは青ざめた。
帳簿を持って走る。
グスタフは伝票を叩いた。
「ここだ!」
指差された数字を見る。
人件費の記入漏れだった。
たった五クローネ。
だが。
帳簿全体が狂っている。
「申し訳ありません」
「申し訳ありませんじゃない!」
机を叩く音。
「帳簿が合わなくなれば信用を失う!」
「……」
「信用を失えば客が離れる!」
「……」
「客が離れれば給料が払えない!」
レオンハルトは頭を下げた。
反論できない。
全部正しいからだ。
夕方。
皆が帰った後も彼は残った。
帳簿を見直す。
数字を書き直す。
何度も。
何度も。
外はもう暗い。
蝋燭の光だけが机を照らしていた。
その時だった。
突然。
脳裏に一つの光景が浮かぶ。
王宮。
深夜。
執務室。
エレノアが一人で帳簿を見ている。
窓の外は真っ暗。
他の者は皆帰っている。
だが彼女だけが残っていた。
赤字を埋め。
契約を見直し。
数字を確認していた。
その姿を思い出した瞬間。
レオンハルトの手が止まった。
「まさか……」
声が震える。
国家予算。
外交費。
軍事費。
王宮運営費。
貿易。
税収。
補助金。
王国全体。
エレノアは。
これを。
一人で。
やっていた。
「嘘だろ……」
目の前の帳簿を見る。
たった一商会。
それだけでも頭が割れそうなのに。
国家規模。
それも赤字だらけの国家。
しかも十年間。
「なぜだ……」
涙が滲んだ。
「なぜ俺は」
思い出す。
自分は何と言った。
帳簿仕事。
書類仕事。
おばさん業務。
雑務。
誰でもできる。
そう笑った。
そう見下した。
だが違った。
誰でもできない。
少なくとも自分にはできない。
エレノアは天才だった。
王国最高の財務家だった。
そして。
それを無償でやっていた。
レオンハルトは椅子へ崩れ落ちた。
胸が苦しい。
情けない。
恥ずかしい。
申し訳ない。
感情がぐちゃぐちゃになる。
エレノアの背中が見えた気がした。
深夜。
誰もいない執務室。
ただ一人。
王国を支えるために働き続ける姿。
その背中は。
王冠を被ったどんな王よりも大きかった。
レオンハルトは両手で顔を覆った。
涙が止まらない。
「エレノア……」
もう届かない名前だった。
だがその夜。
彼は初めて本当の意味で理解した。
自分が失ったのは妻ではない。
王国そのものだったのだと。




