第15話 市場の冷徹な審判
第15話 市場の冷徹な審判
冬の朝は遅い。
港町の空には灰色の雲が垂れ込め、海から吹きつける風が石畳を冷たく撫でていた。
レオンハルトは商会の扉を開ける。
外套にはうっすらと霜が付いていた。
「おはようございます」
「おう」
店主グスタフが短く答える。
炭火の入った暖炉からは木の香りが漂っていた。
以前なら当たり前だった暖かさが、今はありがたかった。
帳簿係になって数か月。
少しずつ仕事にも慣れてきた。
数字の意味。
契約の重さ。
利益の薄さ。
毎日叩き込まれている。
その日も朝から帳簿整理だった。
香辛料取引の利益率。
運送費。
税率変更。
複雑な数字と格闘しているうちに、ふと一つの考えが浮かんだ。
「そうか」
思わず声が漏れる。
隣のマルクが顔を上げた。
「どうした」
「東方港経由より北部街道の方が安い」
「何がだ」
「胡椒です」
レオンハルトは計算板を示した。
「関税が少し高いですが、輸送日数が短い」
マルクが眉を上げる。
「ほう」
「荷傷みも減ります」
「なるほど」
久しぶりだった。
仕事で誰かに評価された気がした。
レオンハルトの胸が少し高鳴る。
昼前。
彼は勇気を出して店主の執務室を訪ねた。
グスタフは昼食を取っていた。
ライ麦パン。
牛肉の煮込み。
キャベツの酢漬け。
質素だが栄養のある食事だった。
「何だ」
グスタフがスープを飲みながら言う。
「提案があります」
「提案?」
レオンハルトは資料を差し出した。
「新しい仕入れルートです」
グスタフは受け取る。
しばらく目を通した。
部屋は静かだった。
暖炉の薪がぱちりと音を立てる。
「悪くない」
グスタフが言った。
レオンハルトの顔が明るくなる。
「本当ですか」
「ああ」
だが。
次の言葉が胸を貫いた。
「採用はしない」
レオンハルトは固まる。
「なぜです」
グスタフはパンをちぎった。
「お前だからだ」
「……」
「元国王の提案だからだ」
意味が分からなかった。
「内容は悪くないのですよね」
「悪くない」
「なら」
グスタフは真っ直ぐ彼を見る。
「お前、自分が何者だったか忘れたのか」
レオンハルトは言葉を失った。
店主は続ける。
「王宮を潰した男だ」
静かな声だった。
だが重かった。
「……」
「商人ギルドは今でも覚えている」
「……」
「未払い」
「……」
「契約破棄」
「……」
「支払い遅延」
一つ一つが胸へ刺さる。
「お前の名前は信用じゃない」
グスタフは断言した。
「信用の反対だ」
暖炉の火が揺れた。
レオンハルトの顔から血の気が引く。
「そんな……」
「現実だ」
グスタフは食事を続ける。
「ビジネスは内容だけじゃない」
「……」
「誰が言うかだ」
「……」
「信用だ」
レオンハルトは立ち尽くした。
店主はさらに言った。
「仮に私がその案を採用して失敗したらどうなる」
「責任は私が」
「取れないだろ」
即答だった。
反論できない。
今の彼はただの見習い帳簿係だ。
「信用とはな」
グスタフはワインではなく水を飲んだ。
「何十年もかけて積み上げるものだ」
「……」
「そして壊れる時は一瞬だ」
その言葉が胸に沈んでいく。
午後。
レオンハルトは仕事が手につかなかった。
数字が霞む。
帳簿が見えない。
信用。
その言葉が頭の中を回っていた。
夕方。
仕事帰りの市場。
魚屋が声を張り上げている。
八百屋が客と笑っている。
子供が走り回る。
皆、自分の信用で生きている。
ふと。
昔の記憶が蘇った。
王宮の会議室。
商人たちが頭を下げていた。
銀行家たちが融資を申し出ていた。
貴族たちが協力を約束していた。
当時の自分は思っていた。
王だからだと。
王家だからだと。
自分の権威だと。
だが。
違った。
今なら分かる。
あの時。
会議室の隅にはいつもエレノアがいた。
商人たちは彼女を見ていた。
銀行家たちは彼女を信頼していた。
契約書には彼女の保証印があった。
彼女の私財。
彼女の実績。
彼女の誠実さ。
それらが信用を支えていたのだ。
自分ではなかった。
王冠ではなかった。
エレノアだった。
「私は……」
市場の真ん中で立ち止まる。
「何を勘違いしていたんだ」
冬の風が吹く。
魚の匂い。
焼き栗の香り。
人々の話し声。
世界は変わらず動いている。
夜。
安宿の部屋。
夕食は野菜の煮込みと黒パンだった。
窓の外では雪が降り始めている。
レオンハルトは机に向かった。
蝋燭の明かりの中。
紙を取り出す。
そこへ一行だけ書いた。
信用。
その下に。
金では買えない。
権力でも買えない。
命令でも作れない。
と書き加える。
そして。
最後に小さく書いた。
エレノア。
その名前を見つめた瞬間。
胸の奥が締め付けられた。
彼女は王国の財務を支えていた。
だけではない。
王国の信用そのものだったのだ。
レオンハルトは目を閉じた。
市場は冷酷だった。
王だった過去など評価しない。
見るのは今だけ。
信用だけ。
それが市場の審判だった。
そしてその夜。
彼の中で最後まで残っていた「元国王としての誇り」が、静かに砕け散った。




