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第16話 元側妃ミレーユの現在地

第16話 元側妃ミレーユの現在地


 雪が降っていた。


 港町の冬は厳しい。


 海から吹きつける風は刃のように冷たく、人々は肩をすぼめながら石畳の道を急ぎ足で歩いていた。


 レオンハルトは商会の仕事を終え、市場へ向かっていた。


 夕食のためだった。


 最近は少しだけ給金が上がった。


 帳簿係見習いとして働くようになり、黒パンだけではなく時々温かい食事も買えるようになったのである。


 市場の端にある屋台からは香ばしい匂いが漂っていた。


 玉ねぎと豆を煮込んだスープ。


 焼いたソーセージ。


 湯気が立ち上り、冷えた空気の中で白く揺れている。


「一杯くれ」


 レオンハルトは銅貨を差し出した。


 木の器に盛られたスープを受け取る。


 湯気が顔に当たった。


 それだけで少し幸せな気持ちになる。


 王だった頃には知らなかった感覚だった。


 その時だった。


 市場の向こうで怒鳴り声が聞こえた。


「待ってください!」


 女性の声だった。


 必死な声。


「今日中に働きます!」


「駄目だ」


 男が吐き捨てる。


「お前は手際が悪い」


「お願いします!」


「帰れ」


 レオンハルトは何となくそちらを見た。


 そして。


 思わず立ち尽くした。


 そこにいたのはミレーユだった。


 かつて王宮で煌びやかなドレスを身にまとっていた女。


 王の寵愛を誇っていた女。


 だが今。


 彼女は別人だった。


 安物の茶色い外套。


 ほつれたスカート。


 ひび割れた手。


 頬は痩せこけている。


 美しかった金髪も艶を失っていた。


「……ミレーユ」


 思わず名前が漏れる。


 彼女が振り向いた。


 その瞬間。


 二人とも固まった。


 雪だけが静かに降っている。


 しばらく誰も言葉を発しなかった。


 やがてミレーユが苦笑した。


「ひどい顔ね」


 レオンハルトも笑った。


「お互い様だ」


 昔なら怒鳴り合っただろう。


 罵倒しただろう。


 だがそんな気力はどちらにも残っていなかった。


 二人は近くの食堂へ入った。


 小さな店だった。


 暖炉があり、客たちは静かに食事をしている。


 レオンハルトは豆と野菜の煮込み。


 ミレーユは一番安いスープを頼んだ。


 しばらく無言だった。


 暖炉の薪がぱちりと音を立てる。


「仕事は?」


 レオンハルトが尋ねる。


 ミレーユは乾いた笑いを漏らした。


「ないわ」


「……」


「正確には続かない」


 スプーンでスープをかき混ぜる。


「事務職を受けたの」


「事務職?」


「馬鹿にしてた仕事」


 ミレーユは自嘲した。


 レオンハルトは黙る。


 彼女は続けた。


「王宮にいた頃、よく言ってたわよね」


 声が苦い。


「書類仕事なんて誰でもできる」


「……」


「おばさん業務だって」


 暖炉の火が揺れる。


「面接で聞かれたの」


 ミレーユは笑う。


 泣きそうな笑顔だった。


「帳簿は読めますか」


「在庫管理はできますか」


「契約書は理解できますか」


 スプーンを置く。


「何一つ答えられなかった」


 レオンハルトは目を伏せた。


 胸が痛い。


 なぜなら。


 それは自分も同じだからだ。


「十社落ちた」


 ミレーユが言う。


「二十社目で数えるのやめた」


 静かな声だった。


「誰でもできる仕事だと思っていたのに」


 その言葉にレオンハルトは苦笑した。


「俺もだ」


 ミレーユが顔を上げる。


「商会で働いてる」


「聞いた」


「帳簿係見習いだ」


「そう」


 二人はしばらく黙った。


 店員がパンを運んでくる。


 焼きたての香りが漂う。


 昔なら見向きもしなかった黒パンだ。


 今はご馳走だった。


 ミレーユは小さく呟いた。


「エレノアって凄かったのね」


 レオンハルトの手が止まる。


「今さらだけど」


 彼女は笑った。


「本当に今さら」


 窓の外では雪が降っている。


 白い世界。


 静かな夜だった。


「私ね」


 ミレーユが言う。


「最初はエレノアが悪いと思ってた」


「……」


「私たちを見捨てたって」


 レオンハルトは何も言わない。


「でも違った」


 スープの湯気が揺れる。


「見捨てたのは私たちだった」


 その言葉は重かった。


 レオンハルトも同じことを考えていた。


 エレノアは何度も説明していた。


 何度も警告していた。


 何度も支えていた。


 なのに聞かなかった。


 理解しなかった。


「私たち」


 ミレーユは小さく笑う。


「本当に馬鹿だったわね」


 レオンハルトも笑った。


 苦い笑いだった。


「ああ」


 王だった男。


 側妃だった女。


 かつて王宮で権力を誇った二人。


 今は安い食堂で豆のスープを飲んでいる。


 だが不思議と惨めではなかった。


 初めて現実を見ている気がした。


「なあ」


 レオンハルトが言う。


「もしあの日に戻れたらどうする」


 ミレーユは少し考えた。


 そして答える。


「エレノアの話を聞く」


 即答だった。


「全部?」


「あの人が何をしてるのか、ちゃんと聞く」


 レオンハルトは静かに頷く。


 自分も同じだった。


 だが時間は戻らない。


 人生には修正できない帳簿がある。


 取り消せない署名がある。


 そして支払わなければならない代償がある。


 二人は食事を終えた。


 店を出る。


 雪はまだ降っていた。


 別れ際。


 ミレーユが振り返る。


「生きなさいよ」


 レオンハルトは少し驚いた。


「お前もな」


「ええ」


 彼女は微笑んだ。


 王宮で見せていた作り笑いではない。


 疲れ切った人間の、本物の笑顔だった。


 二人は反対方向へ歩き出す。


 もう二度と会わないかもしれない。


 それでも。


 同じ後悔を抱えた者同士だった。


 雪の中を歩きながらレオンハルトは思う。


 自分たちは確かに愚かだった。


 だが。


 愚かだったと認めることからしか、人は学べないのかもしれない。


 冷たい冬の夜。


 かつて王と側妃だった二人は、それぞれの帰る場所へ静かに消えていった。



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