第8話 王の監査
第8話 王の監査
王都の空は重い鉛色の雲に覆われていた。
朝から小雨が降り続き、王宮の石畳は濡れて黒く光っている。かつては華やかな馬車が列を作った正門も、今はどこか寂しげだった。
その日、王宮には異様な緊張感が漂っていた。
三大公爵家の当主たちが王宮へ集結していたのである。
レイモンド公爵。
グラント公爵。
ヴァルディス公爵。
いずれも王国を支える大貴族たちだ。
彼らは普段めったに揃わない。
しかし今日は違った。
国庫危機。
未払い問題。
商業ギルドとの対立。
衛兵隊の不満。
王国の根幹が揺らぎ始めていた。
もはや見過ごせない。
そのための緊急会議だった。
大会議室には貴族たちがぎっしり集まっている。
重苦しい空気だった。
誰も笑わない。
誰も世間話をしない。
皆、険しい顔で国王レオンハルトを見つめていた。
国王は玉座に座っていたが、その顔色は優れない。
以前のような自信もなかった。
ミレーユは隣に座っているものの、豪華な桃色のドレス姿が妙に場違いに見える。
最初に立ち上がったのはレイモンド公爵だった。
白髪の混じった壮年の男である。
「陛下」
低い声が会議室に響く。
「国庫の現状について説明を求めます」
レオンハルトは眉をひそめた。
「既に報告している」
「不十分です」
きっぱり言い切られた。
ざわめきが起きる。
王に対してこれほど強い口調を使う者は少ない。
「現在の借入総額」
「未払い契約件数」
「商業ギルド離脱数」
「衛兵隊離職率」
「全て正確な数字を提示していただきたい」
財務官が震える手で書類を差し出した。
数字が読み上げられる。
会議室の空気が凍った。
予想以上だった。
いや。
最悪だった。
「あり得ん……」
誰かが呟く。
「二か月でここまで悪化するのか」
「信じられない」
レオンハルトは苛立った。
「だからエレノアが仕事を放棄したせいだと言っている!」
その瞬間だった。
レイモンド公爵の目が冷たく光る。
「本当にそうでしょうか」
静寂。
公爵は後ろの従者へ手を伸ばした。
「本日、ある資料を持参しました」
分厚い革表紙の帳簿だった。
見るからに古い。
長年使われてきたものだと分かる。
「これは何だ」
国王が問う。
公爵は答えた。
「王妃殿下の本当の決算書です」
会議室がざわついた。
レオンハルトの顔色が変わる。
「何だと」
「エレノア様が十年間管理していた記録です」
帳簿が開かれる。
ページをめくる音だけが響く。
そして読み上げが始まった。
「王宮暖房用魔石不足分補填」
「十五万クローネ」
ざわめき。
「王宮厨房運営費補填」
「二十一万クローネ」
さらにざわめく。
「外交晩餐会不足分補填」
「十二万クローネ」
「孤児院支援費」
「七万クローネ」
「侍女給与補填」
「九万クローネ」
読み上げは終わらない。
次々と数字が出てくる。
次の年。
さらに次の年。
十年間。
延々と続く補填記録。
貴族たちは言葉を失った。
ミレーユも青ざめている。
「嘘ですわ……」
しかし嘘ではない。
全て署名がある。
領収書がある。
契約書がある。
完全な証拠だった。
グラント公爵が静かに言った。
「陛下はご存じなかったのですか」
レオンハルトは返事ができなかった。
知らなかった。
いや。
知ろうとしなかった。
レイモンド公爵がさらに続ける。
「国が存続していた理由がお分かりになりますか」
誰も答えない。
公爵は帳簿を閉じた。
重い音が響く。
「王妃殿下です」
沈黙。
「この国は十年前に破綻していてもおかしくなかった」
「……」
「エレノア様が支えていたのです」
その言葉は重かった。
あまりにも重かった。
国王は拳を握り締める。
思い出していた。
夜遅くまで灯っていた王妃府の明かり。
いつも帳簿を抱えていたエレノア。
晩餐会を途中で抜け出して仕事へ向かう姿。
自分は笑っていた。
堅物だと。
面白みのない女だと。
だが違った。
彼女は国を支えていたのだ。
その頃。
レイヴン公爵領では昼食の時間だった。
エレノアは元部下たちと食卓を囲んでいる。
香草焼きの鶏肉。
温かい野菜スープ。
焼きたてのパン。
苺のタルト。
窓の外では子供たちの笑い声が聞こえる。
平和だった。
そこへ急報が届く。
王都からの伝令だった。
報告を聞いたカミーユが吹き出す。
「本当に監査されたんですね」
ヴィクトルも苦笑した。
「ようやくですか」
ベルトランはスープを飲みながら呟く。
「二か月遅い」
室内に笑いが広がった。
エレノアも小さく微笑む。
怒りはなかった。
復讐の喜びもない。
ただ静かな納得だった。
誰かが数字を見れば分かる話だったのだ。
数字は嘘をつかない。
感情に流されない。
そして今日。
ようやく王国中が知った。
国を支えていたのは王冠ではなかった。
玉座でもなかった。
ましてや国王でもなかった。
一人の王妃だったのだと。
その事実を知った時には、もう全てが手遅れになり始めていたのである。




