第32話 それぞれの正義に、花束を
第32話 それぞれの正義に、花束を
夏の終わりだった。
港町の空は高く澄み渡り、潮風は少しだけ秋の匂いを運び始めている。
銀鴎亭の窓辺には、野原で摘んできた白い花と紫色の花が飾られていた。
ミレーユが活けたものだ。
相変わらず花瓶の水を入れ過ぎて床を濡らし、マーサに怒られたばかりだった。
「もう!」
マーサが雑巾を持って追いかける。
「どうして毎回こうなるの!」
「お花が可愛かったから!」
「理由になってない!」
食堂に笑い声が広がる。
いつもの朝だった。
宿は守られた。
あの日の交渉以来、銀鴎亭には以前にも増して客が集まるようになった。
大金持ちにはなれない。
豪華な宮殿もない。
それでも。
ここには笑顔があった。
昼時になると、食堂は賑やかになる。
焼きたてのパンの香り。
魚介のシチュー。
玉ねぎとベーコンのキッシュ。
窓から差し込む光。
旅人たちの笑い声。
ミレーユは皿を抱えて忙しく走り回っていた。
「ミレーユ!」
「はい!」
「五番テーブル!」
「はい!」
「違う! 三番だ!」
「えっ」
振り向いた瞬間。
盛大に転んだ。
食堂中から悲鳴が上がる。
「大丈夫か!」
「生きてます!」
客たちが大笑いした。
グレゴールが額を押さえる。
「どうして生きてるんだろうな」
「私にも分かりません!」
さらに笑い声。
昔なら恥ずかしくて泣いていただろう。
今は違う。
失敗しても。
笑われても。
ここにいていい。
それが分かっていた。
夕方。
仕事を終えたミレーユは一人で海辺を歩いていた。
波の音が静かに響く。
空は茜色だった。
水平線の向こうへ沈む夕日が海面を金色に染めている。
風が気持ちよかった。
岩場に腰を下ろす。
膝を抱える。
そして。
ふと。
エレノアのことを思い出した。
かつて憎んだ人。
羨んだ人。
勝ちたかった人。
負けたくなかった人。
王妃エレノア。
今なら分かる。
あの人も必死だったのだ。
王宮で。
国で。
誰も見ていない場所で。
帳簿と向き合い。
契約書と戦い。
国を支えていた。
きっと毎日が戦場だった。
誰にも褒められず。
誰にも理解されず。
それでも。
国のために働いていた。
「すごい人だったな」
ぽつりと呟く。
波が返事をするように寄せては返す。
ミレーユは苦笑した。
昔なら認められなかった。
認めたら負けると思っていた。
でも。
今は違う。
エレノアは正しかった。
そして。
自分も間違いではなかった。
宿へ戻る途中。
教会の前を通る。
子供たちが遊んでいた。
「あっ、ミレーユさん!」
「こんにちは!」
駆け寄ってくる。
手を振る。
笑う。
その中には、昔なら居場所を失っていたような子もいた。
不器用な子。
勉強が苦手な子。
泣き虫な子。
みんな違う。
みんな凸凹だ。
でも楽しそうだった。
ミレーユは思う。
完璧な人ばかりの世界なんてない。
あったとしても。
きっと息苦しい。
銀鴎亭へ戻ると、食堂では夕食が始まっていた。
魚の香草焼き。
じゃがいもと豆の煮込み。
温かいパン。
りんごのタルト。
旅人たちが楽しそうに食べている。
グレゴールが声を掛けた。
「何してた」
「お散歩です」
「仕事しろ」
「今します!」
客たちが笑う。
その時だった。
商会帰りのレオンハルトが入ってきた。
帳簿袋を抱えている。
「いつもの席でいいか」
「もちろんです」
ミレーユは笑った。
レオンハルトも少し笑う。
昔の二人を知る者が見たら驚くだろう。
元国王と元側妃。
今ではただの常連客と宿屋の給仕だった。
だが。
それでいい。
それがいい。
夜遅く。
客が帰った後。
ミレーユは一冊のノートを開いた。
最近つけ始めたものだ。
帳簿ではない。
日記でもない。
人生の記録だった。
今日あったことを書く。
転んだ回数。
笑った回数。
助けてもらった回数。
誰かにありがとうと言われた回数。
今日も一つ書き込む。
『宿は今日も満席だった』
その下に。
少し考えてから書く。
『私はここにいていい』
文字は少し歪んでいた。
でもいい。
完璧じゃなくていい。
ミレーユはノートを閉じた。
窓の外には星空。
遠いルクセリアでは、エレノアが世界を動かしているのかもしれない。
大勢の人々を救うために。
一方。
ミレーユは小さな宿で働いている。
目の前の誰かを笑顔にするために。
どちらも違う戦いだった。
どちらも違う正義だった。
どちらも生きるための聖戦だった。
だから。
もう羨まない。
もう憎まない。
ミレーユは心の中でそっと花束を差し出した。
遠い空の下にいる王妃へ。
そして。
ここまで生きてきた自分自身へ。
「お疲れさま」
静かな声で呟く。
暖かな夜風が窓から吹き込み、花瓶の花を優しく揺らした。
その花はまるで、二人の人生に贈られた祝福の花束のように、月明かりの中で静かに咲いていた。




