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第31話 聖戦の結末

第31話 聖戦の結末


 朝から空は重たい灰色の雲に覆われていた。


 銀鴎亭の窓ガラスには細かな雨粒が張り付き、街道を行く旅人たちは肩をすぼめながら足早に通り過ぎていく。


 ミレーユは食堂の床を磨いていた。


 何度も擦った木の床は飴色の艶を帯びている。


 厨房からは煮込みシチューの香りが漂っていた。


 玉ねぎと人参、じゃがいも、それに少しだけ入った燻製肉の香り。


 決して豪華ではない。


 だが、この宿の匂いだった。


「来るぞ」


 帳簿を見ていたグレゴールが低く言った。


 ミレーユの手が止まる。


 今日だった。


 大手商会との最終交渉の日。


 半年前に勝ち取った猶予期間が終わる。


 勝つか。


 消えるか。


 銀鴎亭の運命が決まる日だった。


 昼過ぎ。


 黒塗りの馬車が宿の前に止まった。


 降りてきたのはバーナードだった。


 以前よりも立派な上着を着ている。


 その後ろには数人の部下たち。


 書類箱まで抱えていた。


「約束の日です」


 バーナードは静かに言った。


 グレゴールが頷く。


「分かっている」


 食堂の中央に机が置かれた。


 契約書。


 売買書類。


 帳簿。


 数字。


 数字。


 数字。


 ミレーユは見ただけで頭が痛くなる。


 商会側の男が笑った。


「相変わらず数字は苦手ですか?」


 嫌味だった。


 ミレーユは唇を噛む。


「はい」


「宿の経営に向いていませんね」


「そうかもしれません」


「でしたら――」


 その時だった。


 扉が開いた。


「おう、まだ始まってねえか」


 大声を上げながら入ってきたのは御者のハンスだった。


 雨で濡れた外套を脱ぎながら席につく。


「ハンスさん?」


「昼飯だ」


 続いて薬草商のマリアが入ってくる。


「私もよ」


 さらに旅芸人一座。


 毛皮商人。


 魚の行商人。


 近隣農家の夫婦。


 次々と客がやって来た。


 あっという間に食堂は満席になる。


 グレゴールが目を丸くした。


「どうしたんだお前ら」


「どうしたもこうしたもねえ」


 ハンスは笑った。


「今日はここで飯食う日だろ」


 旅芸人の親方も頷く。


「そうだそうだ」


「毎年この時期は銀鴎亭のシチューだ」


「他じゃ食えねえ」


 食堂に笑い声が広がった。


 バーナードは眉をひそめる。


「何の真似です」


 するとマリアが立ち上がった。


「真似じゃないよ」


 彼女は商会側を見据える。


「この宿は必要なんだ」


「必要?」


「私の夫が死んだ夜」


 マリアの声は静かだった。


「ミレーユは朝まで話を聞いてくれた」


 食堂が静かになる。


「何も解決しなかった」


 マリアは少し笑う。


「でも一人じゃなくなった」


 今度はハンスが言った。


「俺もだ」


「ハンスさん」


「娘と喧嘩した時な」


 大きな男が頭を掻く。


「この娘に愚痴を聞かれた」


 客たちが笑う。


「おかげで仲直りできた」


「そうそう」


「俺もだ」


「私も」


 一人。


 また一人。


 立ち上がる。


 話し始める。


 商会側の人間たちは困惑していた。


 彼らには理解できない。


 数字にならない価値だからだ。


 ミレーユは呆然としていた。


「みなさん……」


 涙が滲む。


 何もしていないと思っていた。


 失敗ばかりだった。


 忘れ物ばかりだった。


 怒られてばかりだった。


 それなのに。


「お前さん」


 旅芸人の親方が笑う。


「自分じゃ分かってねえんだな」


「え?」


「この宿の看板娘だよ」


 食堂中が頷いた。


 その時だった。


 また扉が開く。


 雨を払って入ってきた男がいる。


 レオンハルトだった。


 帳簿袋を抱えている。


「遅れた」


 そう言いながら席につく。


 商会側が顔をしかめた。


「元国王?」


「今は帳簿係だ」


 レオンハルトは平然と答える。


「昼食を食べに来た」


 そう言ってシチューを注文した。


 誰かが吹き出した。


 やがて笑い声が広がる。


 バーナードは静かにその光景を見ていた。


 満席の食堂。


 笑い声。


 湯気の立つシチュー。


 焼きたてのパン。


 人々の顔。


 そして中心にいるミレーユ。


 数字では説明できないものがそこにあった。


 長い沈黙の後。


 バーナードは契約書を閉じた。


「負けました」


 誰も言葉を失う。


「数字だけなら商会の勝ちです」


 彼は立ち上がる。


「ですが」


 食堂を見渡した。


「この宿には数字に出ない資産がある」


 ミレーユの目から涙がこぼれた。


 バーナードは苦笑する。


「そんな顔をするな」


「でも」


「半年どころじゃない」


 彼は契約書を鞄へしまった。


「銀鴎亭は存続だ」


 一瞬。


 静寂。


 そして。


 食堂が歓声に包まれた。


 ハンスが机を叩く。


 旅芸人たちが拍手する。


 マーサは泣いていた。


 グレゴールは顔を真っ赤にしている。


 ミレーユは立ち尽くした。


 胸の奥が熱かった。


 王宮で欲しかったもの。


 地位でもない。


 宝石でもない。


 王の寵愛でもない。


 ただ。


 ここにいていいと言ってくれる人たちだった。


 雨はいつの間にか止んでいた。


 窓から差し込む夕陽が食堂を金色に染める。


 ミレーユは涙を拭いながら笑った。


 聖戦は終わった。


 勝ったのは数字ではない。


 人と人とのつながりだった。


 そしてその戦場こそが、彼女の本当の居場所だったのである。



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