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最終話 新しい風船を抱いて

最終話 新しい風船を抱いて


 春が来ようとしていた。


 長かった冬が終わる。


 港町の石畳の隙間には小さな草が芽吹き、道端には黄色い花が顔を出している。雪解け水が細い流れとなって街のあちこちを走り、潮風は少しだけ柔らかくなっていた。


 銀鴎亭の朝は今日も忙しい。


 まだ太陽が昇り切らないうちから、厨房ではスープの湯気が立ち上っている。


 玉ねぎを炒める甘い香り。


 焼きたてのパンの香ばしい匂い。


 ベーコンがじゅうっと音を立てる。


「ミレーユ!」


 厨房からグレゴールの声が飛ぶ。


「はい!」


「パンを運べ!」


「今行きます!」


 元気よく返事をして走り出した瞬間。


 テーブルの脚に足を引っ掛けた。


「きゃっ!」


 盛大に転ぶ。


 籠いっぱいのパンが宙を舞った。


 食堂中が静まり返る。


 一秒。


 二秒。


 そして。


「またか!」


 常連客たちの笑い声が爆発した。


 ミレーユは床に座り込んだまま頭を抱える。


「どうしてなんでしょう!」


「こっちが聞きたい!」


 旅芸人の親方が腹を抱えて笑っていた。


 御者のハンスも机を叩いている。


 マーサは呆れ顔だった。


「怪我してない?」


「大丈夫です!」


「じゃあ立ちな!」


「はい!」


 ミレーユは立ち上がる。


 スカートの埃を払う。


 今日の服は淡い水色の木綿のワンピースだった。


 胸元には白いエプロン。


 王宮で着ていた高価なドレスとは比べるべくもない。


 けれど。


 今の方がずっと好きだった。


 動きやすい。


 汚れても洗える。


 そして。


 この服は働く人の服だった。


 昼になると宿は満席になった。


 春を待つ旅人たち。


 商人。


 船乗り。


 職人。


 様々な人が集まる。


 ミレーユは注文を取りながら食堂を駆け回った。


「ミレーユさん!」


「はい!」


「いつもの魚のシチュー!」


「分かりました!」


「私はアップルパイ!」


「はい!」


「それと紅茶!」


「了解です!」


 忙しい。


 汗もかく。


 失敗もする。


 でも。


 不思議と毎日が楽しかった。


 昼休み。


 ようやく一息ついたミレーユは裏庭の木箱に腰を下ろした。


 パンの端切れと野菜スープ。


 それが今日の昼食だった。


 温かいスープを口に含む。


 人参の甘さが広がる。


「おいしい……」


 自然と笑顔になった。


 王宮では豪華な料理を毎日食べていた。


 だが味は覚えていない。


 今食べているこのスープの方が、ずっと記憶に残る気がした。


 夕方。


 買い出しのため市場へ向かう。


 港町は春の準備で賑わっていた。


 花売りの少女。


 魚を売る漁師。


 果物を並べる商人。


 あちこちから威勢の良い声が聞こえる。


 その時だった。


 向こうから見慣れた男が歩いてくる。


 レオンハルトだった。


 肩に帳簿袋を提げている。


 相変わらず地味な服装だ。


 麻のシャツ。


 紺色のベスト。


 擦り切れた靴。


 元国王には見えない。


 ただの働く男だった。


 二人は立ち止まる。


 しばらく見つめ合う。


 そして。


 どちらからともなく笑った。


「忙しそうだな」


 レオンハルトが言う。


「そちらも」


「今日は数字に勝った」


「すごいですね」


「三回しか間違えなかった」


「成長しましたね」


 二人とも吹き出した。


 昔なら考えられない会話だった。


 王と側妃。


 権力。


 嫉妬。


 見栄。


 欲望。


 そんなものばかりだった。


 今は違う。


 ただ働く二人だった。


 レオンハルトが言う。


「なあ」


「何です?」


「俺たちは馬鹿だったな」


 ミレーユは少し考えた。


 そして頷く。


「そうですね」


「本当に馬鹿だった」


「ものすごく」


 二人は笑う。


 笑いながら。


 少しだけ泣きそうになった。


 失ったものは多い。


 取り戻せないものもある。


 でも。


 今は前を向いている。


「じゃあな」


「はい」


 レオンハルトは去っていく。


 ミレーユはその背中を見送った。


 昔のような未練はなかった。


 憎しみもない。


 ただ。


 同じ失敗をした仲間として。


 幸せになってほしいと思った。


 その夜。


 仕事を終えたミレーユは部屋へ戻った。


 小さな屋根裏部屋。


 窓から月明かりが差し込んでいる。


 机の上には古いノートがあった。


 人生の帳簿。


 彼女がそう呼んでいるものだ。


 ページを開く。


 そこには失敗もたくさん書かれている。


 忘れ物。


 転倒。


 注文ミス。


 怒られた回数。


 泣いた日。


 恥をかいた日。


 でも。


 その隣には。


 助けてもらったこと。


 笑ったこと。


 ありがとうと言われたこと。


 誰かと食べた食事。


 そんな記録も並んでいた。


 ミレーユはペンを持つ。


 そして今日のページに書き込んだ。


『春が来た』


 少し考える。


 それから続けた。


『私は今、幸せだ』


 文字は少し曲がっている。


 でも構わない。


 完璧じゃなくていい。


 それがミレーユだった。


 窓の外では春風が吹いている。


 昔の自分は、大きな風船を膨らませていた。


 他人より上だと思いたかった。


 認められたかった。


 愛されたかった。


 その風船はとっくに割れた。


 派手な音を立てて。


 粉々になって。


 消えてしまった。


 けれど今。


 胸の中には小さな風船がある。


 誰かを見下すためではない。


 自分を好きでいるための風船。


 失敗してもいい。


 不器用でもいい。


 それでも生きていていい。


 そう教えてくれる風船だった。


 ミレーユは微笑む。


 そして静かに灯りを消した。


 港町の夜は穏やかだった。


 元男爵令嬢ミレーユ。


 元側妃ミレーユ。


 その肩書きはもう必要ない。


 ここから始まるのは。


 一人の女性としての人生。


 本当の人生だった。


 春の風が窓を揺らす。


 新しい季節の始まりを告げるように。


 そしてミレーユは、その優しい風を胸いっぱいに吸い込みながら、静かに目を閉じた。


 明日もきっと忙しい。


 失敗もするだろう。


 それでも。


 ここから生きていくのだ。



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