第3話 最初の未払い
第3話 最初の未払い
エレノアが王宮を去ってから三日が過ぎた。
春の朝だった。
王宮の中庭では噴水がきらきらと光を反射し、花壇には色とりどりのチューリップが咲いている。見た目だけなら何一つ変わらない平穏な朝だった。
だが、見えない場所では確実に何かが狂い始めていた。
側妃宮予定地となる離宮では、ミレーユが大きな鏡の前で機嫌よく髪を整えていた。
薄桃色のシルクのガウンをまとい、銀の櫛で栗色の髪を梳く。
今日は王都一の仕立て職人が完成させたドレスが届く予定だった。
さらに宝石商も訪れ、新しい首飾りやティアラを持参することになっている。
側妃としての生活がいよいよ始まる。
そう思うだけで胸が高鳴った。
「そろそろかしら」
ミレーユは窓の外を見た。
しかし昼になっても誰も来ない。
午後になっても馬車の姿は見えなかった。
夕方になってようやく侍女が飛び込んでくる。
「ミレーユ様!」
「遅いじゃない。ドレスは?」
侍女は青ざめていた。
「それが……仕立て屋が納品できないと」
「は?」
「前金が支払われていないそうです」
ミレーユは目を瞬かせた。
「何を言っているの?」
「私にも分かりません!」
その頃、国王執務室でも似たような騒ぎが起きていた。
レオンハルトは不機嫌そうに机を叩く。
「なぜ宝石商が来ない!」
向かいに立つ秘書官は冷や汗を流していた。
「王宮との新規契約には前金が必要とのことです」
「今までそんな話はなかっただろう!」
「今までは王妃殿下の保証がございましたので……」
その言葉に国王の顔が歪んだ。
「またエレノアか」
苛立たしげに吐き捨てる。
だが秘書官は何も言えなかった。
事実だったからだ。
これまで王宮が多少支払いを遅らせても問題にならなかったのは、エレノアの信用があったからである。
商人たちは知っていた。
王妃は約束を守る。
帳簿をごまかさない。
支払いを踏み倒さない。
だから取引を続けていた。
しかし今は違う。
王妃はいない。
保証もない。
信用もない。
その日の夕食。
国王とミレーユは王宮の晩餐室で食卓についた。
銀の燭台が並び、長いテーブルクロスが白く輝いている。
だが二人の機嫌は最悪だった。
料理が運ばれてくる。
ローストチキン。
野菜のスープ。
焼き立てのパン。
料理自体は豪華だ。
しかしミレーユはフォークを置いた。
「こんなの嫌ですわ」
「何がだ」
「だって私のドレスが届いていませんもの」
「明日には何とかなる」
「宝石もありません」
「明日には何とかなる」
「侍女も増えません」
国王は黙った。
明日。
明日。
そう言い続けている。
だが何も解決していない。
そこへ扉が叩かれた。
「失礼いたします」
財務官だった。
顔色が悪い。
「何だ」
「陛下、商業ギルドより通達が」
「読め」
財務官は震える声で読み上げた。
「今後の全取引について、代金前払いを原則とする」
沈黙。
「以上です」
「……ふざけているのか」
「本物です」
財務官は手紙を差し出した。
王都最大の商業ギルドの印章が押されている。
間違いなく本物だった。
国王は拳を握り締める。
「余を信用しないというのか」
「信用ではなく実績かと……」
「何だと?」
「申し訳ございません」
財務官は頭を下げた。
ミレーユが叫ぶ。
「王様! 何とかしてください!」
「分かっている!」
「私は側妃なのですよ!?」
「分かっていると言っている!」
怒鳴り声が響いた。
ミレーユは唇を噛む。
こんなはずではなかった。
王妃になれば、いや側妃になれば、もっと華やかな生活が待っていると思っていた。
毎日ドレスを選び。
宝石を身につけ。
豪華な宴に参加する。
そんな夢を見ていた。
だが現実は違う。
欲しいものが何一つ届かない。
その夜。
国王は眠れなかった。
窓辺に立ち、王都の夜景を見下ろす。
遠くには商業地区の灯りが輝いていた。
ふと彼は思い出す。
エレノアが毎晩遅くまで執務室に残っていたことを。
帳簿を開き。
契約書を読み。
商人たちと交渉していたことを。
当時は理解できなかった。
ただの書類仕事だと思っていた。
だが今になって分からなくなってきた。
本当にそうだったのか。
翌朝。
さらに悪い知らせが届く。
侍女派遣組合が新規派遣を停止したのだ。
「なぜだ!」
国王は怒鳴った。
しかし返ってきた答えは同じだった。
「前金をお願いしております」
その瞬間。
国王は初めて理解した。
これは偶然ではない。
一つの問題でもない。
王宮全体が、少しずつ何かを失い始めている。
そしてその失われたものの正体が何なのか、まだ誰も理解していなかった。
ただ一人、エレノアだけを除いて。




