第4話 王妃府解散
第4話 王妃府解散
王妃エレノアが王宮を去ってから一週間。
春の日差しは相変わらず穏やかだった。
だが王宮の空気は日に日に重くなっていた。
国王レオンハルトは朝から機嫌が悪かった。
執務室の机には書類が山のように積み上がっている。
契約書。
支払い依頼書。
予算修正案。
調達申請書。
見ただけで頭が痛くなる量だった。
「なぜ誰も処理しない!」
国王の怒声が執務室に響く。
秘書官は青ざめながら答えた。
「担当者がおりませんので……」
「担当者を呼べ!」
「辞職いたしました」
国王の額に青筋が浮かぶ。
「また辞職か!」
机を叩く音が響いた。
数日前からこんな話ばかりだった。
会計士が辞めた。
監査官が辞めた。
契約管理官が辞めた。
調達担当官が辞めた。
そして今朝。
最後まで残っていた秘書官長からも辞表が提出された。
国王は信じられなかった。
王宮勤務は名誉だ。
高給だ。
安定している。
それなのに。
なぜ皆辞めるのか。
「全員呼べ」
「陛下?」
「辞職した連中を全員呼べと言っている!」
その日の午後。
王宮大会議室に十数名の職員が集められた。
会計士。
監査官。
秘書官。
契約管理官。
皆、長年王妃府を支えてきた実務の中核だった。
先頭にはヴィクトルが立っている。
灰色の礼服を着た彼は落ち着いた表情だった。
国王は壇上から彼らを睨みつける。
「説明してもらおう」
静寂。
「なぜ辞職する」
誰も答えない。
国王は苛立ちを募らせる。
「給料が不満か?」
沈黙。
「待遇か?」
沈黙。
「誰か答えろ!」
するとヴィクトルが一歩前へ出た。
「陛下」
「何だ」
「私たちは王妃府職員です」
「だから何だ」
「王妃府が解散した以上、職務は終了いたしました」
国王は理解できないという顔をした。
「王妃府がなくなったなら王宮で働けばいいだろう!」
すると若い監査官カミーユが口を開く。
「申し訳ございません」
「何だ」
「それは不可能です」
「なぜだ!」
カミーユは真っ直ぐ国王を見た。
「私たちが仕えていたのは王宮ではありません」
会議室が静まり返る。
「私たちが仕えていたのはエレノア様です」
国王が絶句した。
その言葉はあまりにも予想外だった。
ヴィクトルが続ける。
「エレノア様は十年間、私たちを守ってくださいました」
「守る?」
「はい」
老会計士が前へ出る。
七十近い男性だった。
「予算不足で給与削減案が出た時も」
「……」
「残業続きで倒れた職員がいた時も」
「……」
「全て王妃殿下が解決してくださいました」
別の女性秘書官も言った。
「私の母が病気になった時、休暇をくださったのも王妃様でした」
「息子の学費を援助してくださったのも王妃様です」
「父の葬儀費用を貸してくださったのも……」
次々と声が上がる。
国王は知らなかった。
そんなことは報告されていない。
いや。
報告されていたかもしれない。
ただ読んでいなかっただけだ。
ミレーユが不機嫌そうに言う。
「でも給料は王宮が払っていたのでしょう?」
会議室の空気が冷えた。
ヴィクトルが静かに答える。
「いいえ」
「え?」
「一部は王妃殿下の私財です」
ミレーユの顔が引きつる。
国王も言葉を失った。
またそれか。
またエレノアだった。
気付けば何もかも彼女だった。
その日の夕食。
国王とミレーユは晩餐室で向かい合っていた。
食卓には香草焼きの鶏肉。
野菜の煮込み。
果物の盛り合わせ。
見た目は豪華だった。
しかし二人とも味を感じていない。
「信じられませんわ」
ミレーユがスープをかき混ぜながら言う。
「ただの使用人でしょう?」
「……」
「王様が命令すれば戻るはずです」
国王は黙った。
本当にそうだろうか。
今朝の会議を思い出す。
誰一人として迷っていなかった。
むしろ晴れやかな顔をしていた。
まるで長年勤めた職場を円満退職した人間のように。
食後。
さらに悪い知らせが届いた。
財務官が駆け込んできたのである。
「陛下!」
「今度は何だ!」
「契約更新が止まっております!」
「何?」
「どの契約書にも承認印がありません!」
国王は目を瞬かせた。
「押せばいいだろう」
「誰がですか?」
「余が押す!」
財務官は顔を覆った。
「契約内容を確認する担当者がいないのです」
沈黙。
「誰が精査するのだ」
「……」
「誰が交渉するのだ」
「……」
「誰が責任を取るのだ」
誰も答えられない。
担当者は全員辞めた。
だからだ。
窓の外では夕闇が王都を包み始めていた。
王宮の灯りが一つ、また一つと点いていく。
だが国王は初めて恐怖を感じた。
王宮は豪華だった。
広大だった。
美しかった。
しかしその中身は。
今や空っぽになり始めている。
そして、その空洞は日に日に大きくなっていた。
誰も残らなかった。
エレノアと共に去ったのは人ではない。
知識だった。
経験だった。
信用だった。
王宮を動かしていた仕組みそのものだったのである。




