第2話 白紙の予算表
第2話 白紙の予算表
朝の王宮は、いつもより慌ただしかった。
窓から差し込む春の陽射しが廊下の赤い絨毯を照らし、侍女たちが忙しなく行き交っている。花瓶には朝摘みの白薔薇が飾られ、甘く清らかな香りが漂っていた。
今日は側妃ミレーユの入内準備に関する予算書提出の日だった。
王宮会議室には国王レオンハルトをはじめ、財務官や宮廷貴族たちが集まっている。
国王は機嫌が良かった。
豪華な椅子にふんぞり返りながら、銀のカップに注がれた珈琲を飲む。
「さて、エレノア」
彼は口元を拭きながら言った。
「予算書は完成したのだろうな」
「はい」
エレノアは落ち着いた声で答えた。
今日の彼女は淡い灰青色のドレスを着ていた。派手な装飾はなく、首元には小さな真珠の首飾りだけ。
その姿は王妃というより有能な実務家のようだった。
ミレーユは隣で期待に頬を染めている。
「楽しみですわ」
彼女は弾む声で言った。
「王妃様ならきっと素晴らしい歓迎式を考えてくださったのでしょう?」
「そうですね」
エレノアは微笑んだ。
「とても分かりやすい内容になっております」
ミレーユは満足そうに笑う。
国王も頷いた。
「うむ。王妃府が本気を出せば問題あるまい」
エレノアは何も答えなかった。
代わりに机の上へ一冊の書類を置いた。
厚い予算書だった。
国王は満足そうにそれを開く。
しかし。
数秒後。
彼の顔色が変わった。
「……何だこれは」
会議室が静まり返る。
国王はページをめくる。
まためくる。
さらにめくる。
そして怒鳴った。
「何だこれはと言っている!」
机を叩く音が響いた。
貴族たちが震え上がる。
予算書の全項目。
すべて。
数字がゼロだった。
衣装費。
ゼロ。
宝飾品費。
ゼロ。
侍女増員費。
ゼロ。
歓迎晩餐会費。
ゼロ。
馬車購入費。
ゼロ。
警備増強費。
ゼロ。
何もかもゼロ。
真っ白だった。
ミレーユが悲鳴を上げる。
「な、何ですのこれ!」
「予算書です」
エレノアは穏やかに答えた。
「ふざけるな!」
国王が立ち上がった。
「余を馬鹿にしているのか!」
「いいえ」
「では説明しろ!」
会議室中の視線がエレノアへ集まる。
だが彼女は少しも動じなかった。
静かに別の書類を取り出す。
「ではご説明いたします」
紙をめくる音だけが響いた。
「まず王妃府の昨年度予算ですが、総額は百二十万クローネです」
財務官たちが頷く。
その数字は事実だった。
「そのうち国庫から支給された金額は三十万クローネ」
「そうだな」
国王が苛立ちながら言う。
「残り九十万クローネはどこから出たと思われますか」
沈黙。
誰も答えない。
エレノアは淡々と続けた。
「私の持参金です」
空気が止まった。
「……何だと?」
「私の個人資産から補填しておりました」
再び沈黙。
財務官たちが青ざめる。
国王は理解できないという顔をした。
「何を言っている」
「そのままの意味です」
エレノアは数字を指差した。
「暖房用魔石の不足分」
「侍女の追加給与」
「厨房の食材費」
「宮廷修繕費」
「外交晩餐会費」
「孤児院支援金」
「全て私が負担しておりました」
誰かが息を呑んだ。
ミレーユの顔から血の気が引く。
「う、嘘ですわ」
「帳簿をご覧になりますか」
エレノアはさらに数冊の帳簿を机へ置いた。
ヴィクトルが無言でそれを開く。
そこには詳細な記録が残っていた。
日付。
金額。
支払い先。
署名。
全て揃っている。
偽造など不可能だった。
国王の顔色が変わった。
「なぜ余に報告しなかった!」
「何度も報告しております」
エレノアは即答した。
「陛下はご署名もされています」
国王は言葉を失った。
確かに署名した記憶はある。
だが読んでいなかった。
秘書が持ってくる書類に機械的にサインしていただけだった。
「つまり」
エレノアは静かに結論を述べた。
「王妃府に側妃様を迎えるための予算は存在いたしません」
「そんな馬鹿な!」
「国庫でご負担ください」
国王は財務官を見る。
財務官は青い顔で首を振った。
「無理です」
「何?」
「現在の国庫に余裕はございません」
「そんなはずが!」
「あるのです」
財務官は震える声で言った。
「王妃殿下が補填されていた分がなくなれば、赤字になります」
静寂。
誰も話さない。
時計の音だけが響く。
その中でエレノアは立ち上がった。
まるで長い仕事を終えた人のようだった。
「陛下」
「……何だ」
「本日をもって王妃職を辞任いたします」
どよめきが起こる。
ミレーユが目を見開いた。
「じ、辞任?」
「はい」
エレノアは微笑む。
だがその笑顔は穏やかだった。
怒りも恨みもない。
本当に終わっただけなのだ。
「私は十年間、王妃として務めてまいりました」
窓から春風が吹き込む。
白薔薇の香りが揺れた。
「ですが、もう十分です」
その言葉には不思議な解放感があった。
肩の重荷を下ろした人間だけが持つ静かな安堵。
国王は慌てて叫んだ。
「待て!」
「失礼いたします」
「余は許しておらん!」
だがエレノアは振り返らなかった。
ヴィクトルをはじめ、王妃府の職員たちが後ろへ続く。
会議室の扉が開く。
柔らかな春の光が差し込んだ。
エレノアは最後に一度だけ王宮を見渡した。
豪華な天井。
高価な絨毯。
磨かれた柱。
十年間支え続けた場所。
けれど不思議と未練はなかった。
「さようなら」
誰に向けた言葉だったのか。
自分でも分からなかった。
扉が静かに閉じる。
その瞬間。
王宮を支えていた一本の柱が、音もなく抜け落ちたのだった。




