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第28話 正論という名の壁

第28話 正論という名の壁


 初夏の風が吹いていた。


 銀鴎亭の窓辺には、小さな野花が飾られている。


 ミレーユが摘んできたものだった。


 白い花びらが風に揺れる。


 いつもの朝。


 いつもの宿。


 いつもの忙しい一日。


 そう思っていた。


 その日までは。


「値上げ?」


 食堂のテーブルで、グレゴールが低く呟いた。


 手には一枚の通知書。


 ミレーユも隣から覗き込む。


 難しい文章が並んでいた。


 だが一つだけ分かった。


 宿屋の負担が増える。


 ということだけは。


 グレゴールは顔をしかめた。


「またか」


 マーサもため息をつく。


「今度は何?」


「宿泊業向け新税制だ」


 ミレーユは首を傾げた。


「悪いことなんですか?」


「悪いってわけじゃない」


 グレゴールは紙を叩く。


「理屈は正しい」


「正しい?」


「税を公平にする」


「はい」


「無駄を減らす」


「はい」


「不正を防ぐ」


「はい」


「全部正しい」


 そう言ってグレゴールは苦く笑った。


「だから厄介なんだ」


 その日の昼。


 宿場町の広場では商人たちが騒いでいた。


 大手商会の馬車が何台も並んでいる。


 新しくできた大型宿泊施設。


 最新設備。


 大量仕入れ。


 効率化。


 合理化。


 客はそちらへ流れ始めていた。


 銀鴎亭は古い。


 部屋も少ない。


 従業員も少ない。


 効率だけ見れば勝負にならない。


 夕方になっても客足は鈍かった。


 食堂の席は半分しか埋まらない。


 以前なら満席だった時間だ。


 グレゴールは帳簿を見ている。


 その横顔は険しい。


 ミレーユの胸がざわついた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫じゃないな」


 珍しく即答だった。


「今月も赤字だ」


 静かな声。


 だが重かった。


 ミレーユは何も言えなくなる。


 夜。


 宿の仕事を終えたあと。


 ミレーユは一人で裏庭へ出た。


 月が出ている。


 虫の声が聞こえる。


 遠くの街道を馬車が通り過ぎた。


 胸が苦しかった。


 頭に浮かぶのはエレノアだった。


 あの人なら。


 この状況をどう見るのだろう。


 きっと言う。


 合理化は必要です。


 無駄は削減すべきです。


 効率は大切です。


 その通りだ。


 全部正しい。


 間違っていない。


 だから余計につらかった。


「私たちは……」


 小さく呟く。


「生きてちゃいけないのかな」


 風が吹いた。


 答える人はいない。


「数字が苦手で」


「要領が悪くて」


「忘れ物ばかりして」


 涙が滲む。


「効率も悪くて」


 胸が痛い。


 エレノアは悪くない。


 分かっている。


 誰よりも国を支えた人だ。


 正しい人だ。


 でも。


 でも。


 ミレーユみたいな人間は。


 どうやって生きればいいのだろう。


 翌朝。


 食堂で朝食を並べていると。


 旅人の老婦人が声を掛けた。


「お嬢さん」


「はい?」


「元気がないね」


 ミレーユは慌てて笑う。


「そんなことありません」


「あるよ」


 老婦人は微笑んだ。


「あなたはいつも人の顔ばかり見てるから」


 ミレーユは驚いた。


 続けて老婦人が言う。


「たまには自分の顔も見なさい」


 言葉が胸に刺さった。


 昼。


 今度は常連の御者がやってきた。


「今日は元気ねえな」


「そうですか?」


「そうだ」


 御者は笑う。


「お前さんがいないとこの宿は静かすぎる」


 その時だった。


 別の客が言う。


「確かに」


「え?」


「この宿に来る理由の半分はお前さんだ」


 食堂に笑いが起きた。


「そうそう」


「話を聞いてくれるしな」


「うちの孫より優しいぞ」


 次々に声が上がる。


 ミレーユはぽかんとした。


 そんなふうに思われていたなんて。


 考えたこともなかった。


 夜。


 閉店後。


 グレゴールがエールを飲みながら言った。


「聞いたか」


「何をです?」


「昼の客の話」


 ミレーユは照れる。


「たまたまです」


「違う」


 グレゴールは首を振った。


「数字で勝てないなら」


「はい」


「別の勝ち方を探すんだ」


 暖炉の火が揺れる。


「エレノア様は正しい」


 グレゴールが言った。


「合理化も必要だ」


「はい」


「だがな」


 彼は真っ直ぐミレーユを見た。


「人間は数字だけじゃ生きられん」


 ミレーユは息を呑む。


「この宿に来る連中はな」


 グレゴールは続ける。


「飯だけ食いに来てるわけじゃない」


「……」


「疲れた心を休めに来てる」


 静かな声だった。


「その役目は俺にはできん」


「店主さん」


「マーサにもできん」


「はい」


「お前にしかできない」


 ミレーユは目を伏せた。


 胸が熱くなる。


 涙が出そうだった。


 外では風が吹いている。


 時代は変わる。


 合理化も進む。


 正論は巨大な壁のように立ちはだかる。


 けれど。


 壁の向こうに行けない人間もいる。


 転ぶ人もいる。


 不器用な人もいる。


 そんな人たちの居場所を守ることにも。


 きっと意味はある。


 ミレーユはゆっくり顔を上げた。


 もう泣いてはいなかった。


 代わりに胸の奥で小さな火が灯っている。


 王宮で燃えていた見栄の火ではない。


 誰かを見返すための火でもない。


 生きるための火だった。


「負けない」


 小さく呟く。


 グレゴールが笑う。


「何か言ったか」


「いいえ」


 ミレーユも笑った。


 正論という名の巨大な壁。


 それでも彼女は立ち向かう。


 この小さな宿を守るために。


 ここで笑う人たちを守るために。


 ミレーユの聖戦は、今始まったばかりだった。



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