第27話 レオンハルトの影
第27話 レオンハルトの影
春の陽射しが少しずつ強くなっていた。
銀鴎亭の前に並ぶ鉢植えには小さな花が咲き始めている。
朝の空気はまだ冷たいが、冬の刺すような寒さはもうない。
ミレーユは宿の玄関前を箒で掃いていた。
木綿のワンピースに白いエプロン。
袖口には洗濯で落ちきらなかったシチューの染みが薄く残っている。
王宮で着ていた絹のドレスとは比べるべくもない。
それでも今の服は働くための服だった。
誰かに与えられたものではなく、自分で汗を流して着ている服だった。
「ミレーユ!」
背後からグレゴールの声が飛ぶ。
「はい!」
「掃除が終わったら倉庫の在庫表を持ってこい」
「分かりました!」
元気よく返事をした。
そして五分後。
「在庫表は?」
グレゴールが聞く。
ミレーユは固まった。
「……忘れました」
「だと思った」
店主は空を仰いだ。
マーサが腹を抱えて笑う。
「今日は早かったね」
「何がですか!」
「忘れ物」
ミレーユは顔を真っ赤にした。
そんな賑やかな朝だった。
昼前になると一台の荷馬車が宿の前に止まった。
馬車の側面には商会の紋章が描かれている。
宿へ届け物らしい。
扉が開いた。
荷台から男が飛び降りる。
その姿を見た瞬間。
ミレーユは息を止めた。
向こうも動きを止める。
春風が二人の間を吹き抜けた。
レオンハルトだった。
元国王。
かつて世界で最も豪華な衣装を身にまとっていた男。
今は麻のシャツに地味なベスト。
何度も繕われた作業ズボン。
肩には帳簿の入った革鞄を提げている。
日に焼けた顔。
少し痩せた体。
だが目だけは以前よりずっと落ち着いていた。
「……ミレーユ」
「……レオンハルト様」
二人とも少しだけ戸惑った。
王宮以来。
あの雪の日の再会以来だった。
しかし次の瞬間。
宿の中から怒鳴り声が飛んだ。
「おいレオンハルト!」
荷馬車の御者だった。
「ぼさっとするな!」
「すみません!」
レオンハルトが慌てて頭を下げる。
その姿を見てミレーユは目を丸くした。
王だった男が。
頭を下げている。
しかも自然に。
レオンハルトも少し照れたように笑った。
「仕事中なんだ」
「私もです」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に苦笑した。
何とも奇妙な再会だった。
午後。
商会の帳簿確認が始まった。
銀鴎亭と商会の取引記録を照合する仕事らしい。
レオンハルトは食堂の隅で書類を広げていた。
眉間に皺を寄せている。
数字と格闘していた。
「違う!」
突然怒鳴り声。
レオンハルトが肩を震わせる。
商会の先輩帳簿係だった。
「何回言わせる!」
「申し訳ありません!」
「数字を一列ずらしたら全部狂う!」
「はい!」
「ここを見ろ!」
「はい!」
まるで新人兵士のようだった。
ミレーユは思わず吹き出しそうになる。
かつて家臣を怒鳴っていた男が。
今は怒鳴られている。
しかも必死だ。
逃げない。
言い訳もしない。
ひたすら頭を下げている。
その姿が妙に可笑しくて。
そして少しだけ尊かった。
夕方。
仕事が一段落した。
ミレーユはお茶を運ぶ。
湯気の立つ紅茶。
小さな焼き菓子付き。
「どうぞ」
「ありがとう」
レオンハルトはカップを持った。
一口飲む。
疲れた顔が少し和らぐ。
「大変そうですね」
「お互い様だろう」
彼は笑った。
「今日は何を忘れた」
「在庫表です」
「相変わらずだな」
「そちらは?」
「帳簿三ページ」
ミレーユは吹き出した。
久しぶりに心から笑った。
レオンハルトも笑う。
不思議だった。
昔ならこんなふうに話せなかった。
王と側妃だったから。
見栄もあった。
欲もあった。
嫉妬もあった。
今は何もない。
ただ生きるために働いている二人だった。
窓の外では夕陽が沈み始めている。
空は橙色。
遠くで鐘の音が鳴った。
「なあ」
レオンハルトが言う。
「何でしょう」
「辞めたいと思うことはあるか」
ミレーユは少し考えた。
「毎日です」
「そうか」
「そちらは?」
「毎日だ」
二人はまた笑った。
それからしばらく黙る。
暖炉の火が静かに揺れていた。
やがてレオンハルトが立ち上がる。
「そろそろ戻る」
「お仕事ですか」
「ああ」
「頑張ってください」
レオンハルトは少し驚いた顔をした。
そして静かに頷く。
「お前もな」
たったそれだけ。
それだけだった。
だが十分だった。
かつて同じ過ちを犯した二人。
同じように転落した二人。
同じように不器用な二人。
だからこそ分かる。
生きるのは大変だ。
働くのは苦しい。
失敗もする。
恥もかく。
それでも。
前へ進むしかない。
レオンハルトは馬車へ向かった。
ミレーユは宿の前で見送る。
夕陽の中を去っていく背中。
もう王の背中ではない。
一人の働く男の背中だった。
レオンハルトは振り返らない。
だが馬車に乗る直前。
ほんの少しだけ手を上げた。
ミレーユも小さく手を振る。
言葉はない。
けれど伝わる。
負けるな。
お前も。
お前もな。
春風が吹いた。
長い冬を越えた者だけが知る、少しだけ優しい風だった。




