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第26話 泥にまみれたおもてなし

第26話 泥にまみれたおもてなし


 春の雨が降っていた。


 銀鴎亭の軒先から落ちる雫が石畳を濡らし、灰色の空を映している。


 朝早くからミレーユは雑巾を持って床を磨いていた。


 薄茶色の木綿のワンピースに白いエプロン。


 袖をまくった腕は少し赤くなっている。


 王宮にいた頃なら、こんな格好で床を磨くなど考えもしなかっただろう。


 だが今は違う。


 働かなければ食べられない。


 そして何より、自分で働いて得る一杯のスープの温かさを知ってしまった。


 とはいえ。


「ミレーユ!」


 朝から店主グレゴールの雷が落ちる。


「はい!」


「二階の掃除は終わったのか!」


「えっと……」


「終わってないな」


「はい……」


「じゃあなぜ床を磨いている!」


「床が汚れていたので……」


「先に二階だ!」


「はい!」


 慌てて走り出す。


 階段を駆け上がる途中で。


 ガシャン。


 手に持っていた水桶をひっくり返した。


 冷たい水が階段に流れる。


 グレゴールは顔を覆った。


「お前は本当に……」


「ご、ごめんなさい!」


 宿の従業員マーサが笑いながら雑巾を持ってくる。


「まあまあ。今日はまだ一回目だから」


「一回目って何だ」


「午前中に何回失敗するかの回数」


 ミレーユは泣きそうになった。


 それでも不思議と昔ほど落ち込まない。


 失敗するのは相変わらずだ。


 だが、この宿には怒鳴り続ける人はいない。


 失敗してもやり直せばいいと言ってくれる。


 それだけで救われる。


 昼近くになると雨足が強くなった。


 宿場町を行き交う旅人たちはびしょ濡れになりながら銀鴎亭へ駆け込んでくる。


 暖炉には火が入り、食堂には煮込み料理の香りが漂っていた。


 今日の昼食は鶏肉と豆のシチュー。


 焼きたての黒パン。


 玉ねぎと人参の酢漬け。


 安い料理だが、湯気と香りだけで人の心を和ませる。


 その時だった。


 扉が勢いよく開いた。


 一人の男が入ってくる。


 四十代くらい。


 背が高く、肩幅も広い。


 しかし顔は険しかった。


 雨に濡れた外套から雫が落ちる。


「部屋はあるか」


 ぶっきらぼうな声。


 グレゴールが頷く。


「一部屋空いてる」


「飯も頼む」


「分かった」


 男は窓際の席へ座った。


 周囲の客が少し距離を取る。


 怒っているように見えるからだ。


 ミレーユはその男を見た。


 そして思った。


 怒っているのではない。


 疲れている。


 とても。


 とても疲れている。


 ミレーユは厨房へ向かった。


 湯気の立つポットを持って戻る。


「お茶です」


 男が眉をひそめた。


「頼んでない」


「サービスです」


「なぜだ」


 ミレーユは少し考えた。


「寒そうだったので」


 男は黙った。


 しばらくしてカップを手に取る。


 熱い湯気が立ち上る。


 乾燥したハーブの香り。


 男は一口飲んだ。


 そして。


 ほんの少しだけ表情が緩んだ。


「……うまい」


 その声は驚くほど小さかった。


 ミレーユは微笑んだ。


「よかったです」


 夕方。


 男は一人で食事をしていた。


 鶏肉のシチュー。


 黒パン。


 安い赤ワイン。


 しかし食べる速度が遅い。


 どこか心ここにあらずだった。


 ミレーユは皿を下げながら声を掛ける。


「旅のお仕事ですか?」


「まあな」


「大変そうですね」


 男は苦笑した。


「顔に出てるか」


「少し」


 男はしばらく黙った。


 暖炉の火が揺れている。


 外では雨。


 宿の中だけが温かかった。


「娘がな」


 男がぽつりと言った。


「嫁ぐんだ」


 ミレーユは手を止めた。


「おめでとうございます」


「そうだな」


 男は笑う。


 だが寂しそうだった。


「分かってるんだ」


「はい」


「喜ぶべきなんだ」


「はい」


「でもな」


 声が震える。


「小さい頃から育ててきたからな」


 ミレーユは何も言わなかった。


 ただ隣の椅子を少し引く。


 男は続けた。


「気付いたら大人になってた」


 目が赤い。


 泣きそうなのだ。


 娘を送り出す父親。


 ただそれだけだった。


 怒っていたわけではない。


 傷付いていたわけでもない。


 寂しかったのだ。


 ミレーユは静かに言った。


「きっと素敵なお父様だったんですね」


 男は顔を上げた。


「どうしてだ」


「だって」


 ミレーユは笑った。


「そんな顔をするくらい大切なんですから」


 男は何も言えなくなった。


 やがて目頭を押さえる。


「参ったな」


 その夜。


 男は帰り際に言った。


「ありがとう」


「はい」


「久しぶりに人と話した気がする」


 そして宿を後にした。


 それを見送るミレーユ。


 グレゴールが近付いてくる。


「またか」


「何がです?」


「客を泣かせた」


「違います!」


 マーサが笑う。


「でも本当に不思議だね」


「そうですか?」


「私たちは何年働いてもああいうことはできない」


 ミレーユは首を傾げた。


 自分では分からない。


 ただ。


 相手の顔を見る。


 声を聞く。


 そして少し考える。


 それだけだ。


 グレゴールは腕を組む。


「数字は駄目」


「はい」


「帳簿も駄目」


「はい」


「要領も悪い」


「はい……」


「だが」


 店主は笑った。


「お前は人間相手の仕事なら天才だ」


 ミレーユはぽかんとした。


 天才。


 そんな言葉を向けられたことはなかった。


 エレノアは数字の天才だった。


 レオンハルトは王族として育った。


 自分には何もないと思っていた。


 けれど。


 もしかしたら。


 本当に少しだけ。


 自分にも誰かを助けられる力があるのかもしれない。


 雨は夜更けには止んでいた。


 宿の窓から月明かりが差し込む。


 ミレーユは最後のテーブルを拭きながら微笑む。


 高級ドレスはない。


 宝石もない。


 王宮もない。


 代わりに手には雑巾がある。


 それでも不思議だった。


 今の自分の方が、昔より少しだけ好きになれそうな気がしていた。



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