第25話 ミレーユのさしすせそ
第25話 ミレーユのさしすせそ
銀鴎亭で働き始めて二週間が過ぎた。
春はまだ浅い。
宿場町の朝は冷え込み、石畳には霜が白く降りている。
ミレーユはまだ暗いうちから起き出していた。
住み込み部屋の小さな窓から見える空は薄紫色だ。
灰色の仕事着のワンピースに着替え、白いエプロンを結ぶ。
鏡を見る。
王宮にいた頃の豪華な装飾品はない。
真珠もない。
宝石もない。
だが不思議と嫌ではなかった。
「よし」
自分に言い聞かせる。
その時だった。
階下から怒鳴り声が響いた。
「ミレーユ!」
「はいっ!」
慌てて飛び出す。
階段を駆け下りる。
店主グレゴールが腕を組んで立っていた。
「また忘れたな」
「え?」
「朝食のパン」
「あ」
焼き上がったパンが窯の中に置きっぱなしだった。
慌てて取り出す。
少しだけ焼きすぎている。
グレゴールは頭を抱えた。
「昨日はスープを忘れた」
「はい」
「一昨日は洗濯物を忘れた」
「はい」
「その前は客の荷物を忘れた」
「はい……」
どんどん声が小さくなる。
すると横から女性従業員のマーサが笑った。
「まあまあ」
「笑い事じゃない」
「でもお客さんには好かれてるじゃない」
グレゴールが大きなため息をつく。
「それが不思議なんだ」
ミレーユも不思議だった。
仕事は失敗ばかりなのに。
なぜか客は怒らない。
むしろ笑って許してくれる。
その理由が分かったのは、その日の昼だった。
宿に老夫婦がやってきた。
長旅で疲れているらしい。
ミレーユは荷物を受け取った。
そして思わず言った。
「大丈夫ですか?」
老婦人が驚く。
「え?」
「足、痛そうです」
老婦人は目を丸くした。
「分かるの?」
「少しだけ」
歩き方で分かった。
右足をかばっている。
ミレーユは椅子を引いた。
「こちらへどうぞ」
暖炉の近く。
一番暖かい席だった。
老婦人は嬉しそうに座る。
老紳士も微笑んだ。
「気が利くお嬢さんだ」
ミレーユは照れた。
その夜。
夕食の時間だった。
銀鴎亭名物の煮込みシチュー。
牛肉。
人参。
玉ねぎ。
じゃがいも。
香草の香りが食堂いっぱいに広がる。
焼きたての黒パンも並んでいる。
客たちは満足そうだった。
だが。
一人だけ不機嫌そうな男がいる。
商人だった。
四十代。
眉間に皺。
いかにも怒りっぽそうな顔。
ミレーユは近付いた。
「何かございましたか?」
「別に」
だが顔は怒っている。
ミレーユは少し考えた。
そして厨房へ走る。
戻ってきた時、手には小さな皿があった。
焼きリンゴだった。
「これ、サービスです」
商人が眉をひそめる。
「なぜだ」
「甘いもの食べたそうな顔してたので」
沈黙。
そして。
商人が吹き出した。
「なんだそれは」
食堂中が笑う。
商人も笑った。
そして焼きリンゴを食べる。
「うまい」
機嫌が直った。
それを見ていたグレゴールが呆れた顔をする。
「どうして分かるんだ」
「何がです?」
「客の機嫌だ」
「顔です」
「またそれか」
ミレーユは首を傾げる。
だって本当に顔で分かる。
怒っている。
寂しい。
疲れている。
不安だ。
何となく見える。
昔からそうだった。
だから王宮でも生き残れた。
その夜。
閉店後。
グレゴールが酒場の机でエールを飲んでいた。
ミレーユは皿洗いをしている。
「おい」
「はい」
「お前、自分の強み分かってるか」
「ありません」
即答した。
グレゴールは頭を抱えた。
「ある」
「ないです」
「ある」
「ないです」
「ある!」
怒鳴られた。
ミレーユはびくっとする。
グレゴールは指を折り始めた。
「さ」
「さ?」
「さすがですね」
「はい?」
「し」
「し?」
「知らなかったです」
「え?」
「す」
「す?」
「すごいですね」
「何ですかそれ」
マーサが横で吹き出した。
「なるほど!」
グレゴールは続ける。
「せ」
「せ?」
「センスありますね」
「だから何なんですか!」
「そ」
グレゴールがニヤリと笑った。
「そうなんですね」
ミレーユはぽかんとする。
マーサは笑い転げている。
「つまりな」
グレゴールは言った。
「お前は相手を気持ちよくする天才なんだ」
ミレーユは黙った。
「王宮だろうが宿屋だろうが変わらん」
「でも私は」
「数字は駄目だな」
「はい」
「忘れ物も多い」
「はい」
「事務は向いてない」
「はい……」
「だが」
グレゴールは真っ直ぐ見た。
「客はお前に会いに来る」
ミレーユは息を呑んだ。
そんなこと考えたこともなかった。
「人間には向き不向きがある」
グレゴールが言う。
「俺は客の気持ちなんて分からん」
マーサも頷く。
「私も」
「でもお前は分かる」
暖炉の火が揺れていた。
優しい橙色の光。
ミレーユはその火を見つめる。
王宮では。
ずっとエレノアになろうとしていた。
数字ができる人。
完璧な人。
賢い人。
でもなれなかった。
今なら少し分かる。
自分は違う人間なのだ。
違う武器しか持っていない。
けれど。
それでもいいのかもしれない。
「ありがとうございます」
小さく呟く。
グレゴールは照れ臭そうに鼻を鳴らした。
「礼を言う暇があったら皿を洗え」
「はい!」
ミレーユは笑った。
久しぶりに心から笑った。
窓の外では春の風が吹いている。
まだ冷たい風だった。
けれど。
長い冬は少しずつ終わろうとしていた。




