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第29話 男爵令嬢の交渉術

第29話 男爵令嬢の交渉術


 その男が銀鴎亭へやって来たのは、梅雨入り前の蒸し暑い午後だった。


 黒塗りの豪華な馬車。


 磨き上げられた革靴。


 金糸の刺繍が入った濃紺の上着。


 宿場町には場違いなほど高価な服装だった。


 男は宿の看板を見上げると、鼻で笑った。


「なるほど。噂通りだな」


 その声を聞いた瞬間、グレゴールの顔色が変わった。


 ミレーユは配膳の手を止める。


「知り合いですか?」


「知り合いじゃない」


 グレゴールは苦々しく言った。


「敵だ」


 男の名はバーナード。


 大手商会アルカディア商会の代理人だった。


 近頃、宿場町の小さな宿を次々と買収している人物でもある。


 銀鴎亭にも何度か話を持ち込んできていた。


 そして今日も。


「グレゴール殿」


 男は勝手に席へ座る。


「返事は決まったかな」


「断る」


「即答ですか」


「毎回同じだ」


 バーナードは肩をすくめた。


「残念です」


 そう言いながら全く残念そうではない。


 むしろ楽しんでいるようだった。


「この宿はあと半年もちませんよ」


 グレゴールの拳が震える。


「税制改革」


「物流改革」


「大型宿泊施設の進出」


 バーナードは指を折る。


「時代は変わったんです」


 ミレーユは黙って聞いていた。


 内容はよく分からない。


 だが一つだけ分かる。


 この男は銀鴎亭が潰れるのを待っている。


「今なら高値で買い取れます」


 バーナードは笑った。


「三か月後にはもっと安くなりますがね」


 その言葉に食堂の空気が凍る。


 常連客たちまで顔をしかめた。


 男は帰っていった。


 だが不安だけを置き土産にして。


 夜。


 閉店後の食堂。


 暖炉の火は小さくなっている。


 テーブルには簡素な夕食が並んでいた。


 野菜のスープ。


 黒パン。


 少量の燻製肉。


 宿の経営が苦しい今、贅沢はできない。


 グレゴールはスープを飲みながら言った。


「終わりかもしれんな」


 その言葉に誰も返事ができない。


 マーサが俯く。


 ミレーユの胸が痛んだ。


 終わり。


 せっかく見つけた居場所。


 ようやく掴んだ人生。


 それがまた失われる。


 その夜。


 ミレーユは眠れなかった。


 狭い屋根裏部屋。


 小さなベッド。


 窓から月明かりが差し込んでいる。


 天井を見つめる。


 すると。


 昔の記憶が蘇った。


 男爵家。


 社交界。


 王宮。


 側妃になるために必死だった頃。


 あの頃の自分は。


 人の顔ばかり見ていた。


 誰が何を欲しているのか。


 何を恐れているのか。


 どんな言葉に弱いのか。


 生き残るために。


 必死で学んだ。


 そしてふと思う。


「私……」


 天井を見つめる。


「数字は分からない」


 エレノアにはなれない。


 帳簿も読めない。


 税制も理解できない。


 でも。


「人なら分かる」


 翌日。


 ミレーユは町へ出た。


 市場。


 酒場。


 仕立屋。


 様々な場所を回る。


 聞き込みだ。


 目的は一つ。


 バーナードという男を知ること。


 三日後。


 ミレーユは銀鴎亭の裏庭で微笑んでいた。


「なるほど」


 全部繋がった。


 四日後。


 再びバーナードがやって来る。


「考えは変わりましたか?」


 自信満々の笑み。


 しかし今日は違った。


 ミレーユが前へ出る。


「お話があります」


 バーナードが眉を上げる。


「あなたが?」


「はい」


 彼は面白そうに笑った。


「聞きましょう」


 食堂の奥。


 二人は向かい合った。


 ミレーユは紅茶を注ぐ。


 香り高いダージリン。


 そして言った。


「妹さん、お元気ですか?」


 バーナードの手が止まった。


「……何の話です」


「病気だそうですね」


 沈黙。


 空気が変わる。


 ミレーユは知っていた。


 市場で聞いた。


 酒場でも聞いた。


 彼には大切な妹がいる。


 病弱な妹が。


 そして彼は妹を養うために出世した。


「誰から聞いた」


「町の人です」


 バーナードは黙った。


 ミレーユは続ける。


「あなた、悪い人じゃありませんね」


「は?」


「ただ必死なだけです」


 彼の目が揺れた。


「商会で結果を出さないといけない」


「……」


「妹さんを守らないといけない」


「……」


「だから銀鴎亭を潰そうとしてる」


 バーナードは笑った。


 しかし乾いた笑いだった。


「甘いですね」


「そうですか?」


「ビジネスですよ」


「そうですね」


 ミレーユは頷く。


「だからお願いがあります」


「何です」


「半年ください」


 バーナードは目を細めた。


「半年?」


「はい」


「なぜ」


 ミレーユは真っ直ぐ見た。


「負けたくないからです」


 沈黙。


 暖炉の薪が爆ぜる。


「あなたも必死」


「……」


「私たちも必死」


「……」


「だから半年だけ」


 バーナードは長い間黙っていた。


 やがて。


「馬鹿だな」


 ぽつりと言った。


「よく言われます」


「普通は金の話をする」


「できません」


「数字も出さない」


「分かりません」


 ミレーユは正直に答えた。


 すると。


 バーナードは吹き出した。


 初めてだった。


 心から笑ったように見えた。


「本当に馬鹿だ」


「はい」


「だが」


 彼は立ち上がる。


「嫌いじゃない」


 窓の外では夕陽が沈み始めていた。


 オレンジ色の光が食堂を染める。


 バーナードは扉へ向かう。


 そして振り返った。


「半年だ」


 ミレーユの心臓が跳ねる。


「え?」


「半年猶予をやる」


「本当ですか」


「ただし」


 彼は笑った。


「その間に潰れたら終わりだ」


「はい!」


 大きな返事。


 バーナードは去っていった。


 その後ろ姿を見送りながら。


 ミレーユは大きく息を吐く。


 足が震えていた。


 怖かった。


 でも。


 勝ち取った。


 数字ではない。


 帳簿でもない。


 人の心で。


 男爵令嬢から側妃へ這い上がった頃に磨いた。


 自分だけの武器で。


 食堂へ戻ると。


 グレゴールとマーサが立っていた。


 ぽかんとした顔。


「何したんだ」


 グレゴールが聞く。


 ミレーユは照れ臭そうに笑った。


「分かりません」


「分からんのか」


「でも」


 彼女は窓の外を見る。


 夕焼けが美しい。


「もう少しだけ戦えそうです」


 グレゴールは鼻を鳴らした。


 そして初めて。


 ほんの少しだけ笑った。


 銀鴎亭の聖戦は。


 まだ終わらない。



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