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第20話 大帝国ルクセリアの驚異的な決算報告書

第20話 大帝国ルクセリアの驚異的な決算報告書


 夏の終わりだった。


 港町の空は高く澄み渡り、海には白い帆船がゆっくりと浮かんでいる。


 潮風は心地よく、市場には果物や野菜が山のように並んでいた。


 桃。


 葡萄。


 トマト。


 黄金色の小麦。


 豊かな季節だった。


 レオンハルトは商会の仕事を終え、いつものように広場を横切っていた。


 帳簿係として働き始めて一年以上が過ぎている。


 服装も以前とは変わった。


 丈夫な紺色の作業着。


 白いシャツ。


 革の前掛け。


 袖にはインクの染みが付いている。


 だがその染みを恥ずかしいとは思わなかった。


 働いている証だった。


 その時だった。


 広場が妙に騒がしい。


 人だかりができている。


「どうしたんだ?」


 レオンハルトが尋ねると、近くの魚屋が振り返った。


「ルクセリアの決算報告書だよ」


「決算報告書?」


「国家決算だ」


 レオンハルトの足が止まる。


 胸が小さく脈打った。


 人々の間を抜ける。


 広場中央の掲示板。


 そこには巨大な紙が何枚も貼られていた。


 見慣れた形式だった。


 財政報告書。


 歳入。


 歳出。


 国債。


 公共事業。


 税収。


 そして。


 一番上に名前があった。


 最高財務責任者。


 エレノア・ルクセリア。


 レオンハルトは息を呑む。


 周囲の人々は興奮していた。


「すごいな」


「また黒字か」


「去年より増えてるぞ」


「税金も下がったらしい」


「学校も増えるんだってよ」


 誰もが笑顔だった。


 レオンハルトは報告書へ近づく。


 数字を見る。


 そして。


 動けなくなった。


 そこに並んでいた数字は美しかった。


 無駄がない。


 狂いがない。


 収支は完全な黒字。


 国債は減少。


 教育予算は増額。


 医療支援も拡大。


 農業補助金も増えている。


 しかも。


 国庫には莫大な余剰資金が積み上がっていた。


「……信じられない」


 思わず呟く。


 隣にいた老人が笑った。


「ルクセリアは景気がいいからな」


「そうですね」


「この女財務官が凄いらしいぞ」


 老人が報告書を指差す。


「天才だって噂だ」


 レオンハルトは何も言えない。


 知っていた。


 誰よりも。


 その天才を。


 かつて自分の隣にいた女性だった。


 だが。


 当時の自分は理解していなかった。


 いや。


 理解しようとしなかった。


 彼は報告書を読み続ける。


 一行。


 また一行。


 読み進めるたびに胸が締め付けられた。


 そこには見覚えのある政策があった。


 地方商人支援。


 農業物流改革。


 教育投資。


 公共会計の透明化。


 全部だ。


 全部。


 昔エレノアが提案していた。


 王宮で。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 しかし自分は笑った。


「金にならん」


「後回しでいい」


「派手さがない」


 そう言って握り潰した。


 その結果。


 王国は滅んだ。


 だが今。


 その政策はルクセリアを繁栄させていた。


 人々を豊かにしていた。


 子供たちを学校へ通わせていた。


 病人を救っていた。


 市場を活気づけていた。


 世界を動かしていた。


 レオンハルトは目を閉じる。


 眩暈がした。


 広場の喧騒が遠く聞こえる。


 エレノアの姿が浮かんだ。


 深夜の執務室。


 誰もいない机。


 積み上がる帳簿。


 眠そうな目。


 それでも止まらない手。


 あの時。


 彼女はすでに見えていたのだ。


 十年先が。


 二十年先が。


 国の未来が。


 だが。


 自分は彼女の翼を掴んでいた。


 飛ばせなかった。


 狭い王宮へ閉じ込めていた。


「私は……」


 声が震える。


「なんてことを」


 涙が落ちた。


 広場の石畳へ。


 ぽたりと。


 ぽたりと。


 落ちる。


 誰も気付かない。


 だがレオンハルトには分かっていた。


 彼女は王妃として優秀だったのではない。


 最初から。


 世界を動かす器だったのだ。


 仕事帰りの人々が報告書を見ている。


 笑顔。


 希望。


 期待。


 その全てが数字の向こうにあった。


 そして数字の向こうにはエレノアがいた。


 夕方。


 レオンハルトは広場を離れた。


 安宿へ向かう。


 途中のパン屋で、小さな葡萄パンを買った。


 少しだけ贅沢だった。


 宿では夕食が出ていた。


 鶏肉のシチュー。


 焼きたてのパン。


 夏野菜のサラダ。


 温かい食事だった。


 彼は静かに食べる。


 一口ずつ。


 ゆっくりと。


 そして食後。


 部屋へ戻った。


 机の引き出しを開ける。


 そこには例の返済受領証が入っていた。


 最初の百クローネ。


 彼はそれを見つめる。


 まだ返済は始まったばかりだ。


 一生かかっても終わらないだろう。


 だが。


 それでいいと思った。


 窓を開ける。


 夜風が入る。


 遠くで港の鐘が鳴った。


 レオンハルトは静かに空を見上げる。


 星が輝いている。


「おめでとう」


 小さく呟く。


 誰にも聞こえない声だった。


「ようやく飛べたんだな」


 エレノアへ向けた言葉だった。


 返事はない。


 届くこともない。


 それでも。


 彼の胸は不思議なほど穏やかだった。


 数字は嘘をつかない。


 その美しい決算報告書は、エレノアという一人の女性がどれほど偉大だったかを証明していた。


 そして同時に。


 レオンハルトがどれほど愚かだったかも。


 だが彼はもう目を背けなかった。


 数字と向き合うように。


 人生とも向き合う。


 それが今の彼にできる、唯一の誠実さだった。



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