第19話 最後の返済、最初の100クローネ
第19話 最後の返済、最初の100クローネ
夏が近づいていた。
港町の朝は眩しいほど明るく、海面には金色の光が踊っている。
潮風は心地よく、人々の足取りも軽かった。
レオンハルトは商会の扉を開けた。
いつもの朝。
いつもの仕事。
だが今日は少しだけ違った。
胸の奥が落ち着かなかった。
帳簿係になって一年。
長かった。
本当に長かった。
数字が読めなかった。
契約書が理解できなかった。
利益と売上の違いすら知らなかった。
そんな男が。
今日を迎えたのだ。
「レオン」
店主グスタフが呼ぶ。
「はい」
「執務室へ来い」
何か失敗しただろうか。
レオンハルトは緊張した。
この一年で何度も怒鳴られてきた。
帳簿の記入漏れ。
計算ミス。
契約確認不足。
そのたびに叱られた。
だが。
その回数は少しずつ減っていた。
執務室へ入る。
グスタフが椅子に座っていた。
隣には筆頭帳簿係のマルクもいる。
二人とも真面目な顔だった。
「座れ」
レオンハルトは言われた通り座る。
嫌な汗が出る。
「何かありましたか」
グスタフは引き出しから封筒を取り出した。
そして机の上へ置く。
「受け取れ」
「……?」
「夏の歩合だ」
レオンハルトは固まった。
「歩合?」
「そうだ」
マルクが笑う。
「お前の担当していた取引先、利益率が改善した」
「……」
「在庫管理も正確だった」
グスタフが腕を組む。
「だから払う」
レオンハルトは封筒を開けた。
中には銀貨が入っていた。
かなりの額だった。
「こんなに……」
声が震える。
「受け取れ」
「ですが」
「働いた分だ」
グスタフは即答した。
「お前が稼いだ金だ」
その瞬間だった。
レオンハルトの胸が熱くなる。
働いた分。
自分が稼いだ金。
王だった頃には聞いたことのない言葉だった。
昔は税収だった。
王家の資産だった。
国庫だった。
だが今は違う。
これは自分が働いて得た金だった。
昼食は商会のみんなで祝った。
焼き立ての白パン。
鶏肉の香草焼き。
じゃがいものスープ。
甘い果実酒。
豪華ではない。
だが笑顔があった。
「最初の頃は酷かったな」
マルクが笑う。
「数字が合わないと王様みたいな顔してた」
周囲が吹き出す。
レオンハルトも苦笑した。
「事実だから反論できません」
「今は違う」
グスタフが言った。
「ちゃんと帳簿係の顔になった」
その言葉が何より嬉しかった。
王ではない。
帳簿係。
それが誇らしかった。
夕方。
仕事を終えたレオンハルトは商会を出た。
手には封筒。
歩合の入った封筒。
普通なら何か買うだろう。
新しい服。
美味しい食事。
少し良い部屋。
だが彼には行く場所があった。
港町の中央通り。
ルクセリア財務局出張所。
石造りの建物だった。
入口で足が止まる。
心臓がうるさい。
手のひらに汗が滲む。
それでも入った。
窓口には若い職員がいた。
「ご用件は」
レオンハルトは封筒を握り締める。
「送金を」
「どちらへ」
彼は一枚の紙を差し出した。
職員が目を見開く。
そこには債務番号が記されていた。
王妃府立替金返済請求。
元国王レオンハルト宛。
「こちらですか」
「はい」
「金額は」
レオンハルトは銀貨を取り出す。
震える手だった。
「百クローネです」
職員は一瞬だけ沈黙した。
その債務額を知っていたからだ。
天文学的な数字。
百クローネなど海に落とした水滴にもならない。
だが。
職員は何も言わなかった。
「確かにお預かりします」
書類が作成される。
判子が押される。
受領証が渡される。
それだけだった。
ほんの数分。
だがレオンハルトにとっては人生で最も長い時間だった。
外へ出る。
夕日が街を赤く染めていた。
受領証を見る。
返済額。
百クローネ。
残債。
途方もない数字。
見ているだけで笑えてくる。
一生かかっても返せない。
いや。
二生あっても足りないかもしれない。
それでも。
不思議と心は軽かった。
安宿へ戻る途中、小さなパン屋へ寄る。
今日は少しだけ贅沢をした。
蜂蜜を塗った丸パンを一つ買う。
十五クローネ。
昔なら何も思わなかった金額だ。
今は違う。
価値が分かる。
パン屋の娘が笑顔で渡してくれる。
「ありがとうございました」
レオンハルトも頭を下げる。
「ありがとう」
宿へ戻る。
窓際の机。
蝋燭の火。
夏の風。
丸パンを一口かじる。
甘い。
とても甘い。
昔食べた王宮の菓子より美味しく感じた。
机の引き出しから受領証を取り出す。
そこには確かに記されていた。
返済額。
百クローネ。
彼は指でその数字をなぞる。
これが始まりだった。
最後の返済ではない。
最初の返済だった。
王としての誇りは失った。
財産も失った。
地位も失った。
だが。
一つだけ得たものがある。
責任だった。
窓の外では夕焼けが消え、夜の帳が降り始めている。
レオンハルトは静かに目を閉じた。
百クローネ。
たった百クローネ。
それでも今の彼には、王冠より重い価値を持つ数字だった。




